レッジョ。原稿を再読。

以前の原稿を再読・・・
カルラ・リナルディさん(レッジョ・チルドレン代表)と佐藤学さんの対談が
7月15日イタリア文化会館で開かれました
カルラリナルディさんの語り
「子どもとは何か」という問い
「子どもとは、〜ができない存在」と考えてしまう
話せない。書けない。コミュニケーションできない。
けれど、レッジョは子どもをもっと肯定的にとらえている。
たとえば、子どもは人間性のエッセンスをもっていて、それを大人に再確認させることができる。
たとえば、子どもは生まれもって学ぶ意欲のある存在で、それによって人生を作り出す喜びを知っている存在。
(←これもわたしたち大人が忘れかけていること)
子どもを大人よりも下に見るのではなく、お互いが市民であり、個性的であり主役であるということ。
ルソーは『エミール』子ども観を作った人物だが、レッジョはそれを現代的な子ども観として創造したともいえる。
子どもを「何もできないから教師が指導しないと」というアプローチではなく
「子どもたちは自分たちで学びたいと思い、行動したいと思っている。だから教師はどうするか?」というあぷろーちでは、そこから出てくる実践もまったく違うものになってくる。
現代的子ども観と佐藤学は言っていたけれど、それをしっかり言葉にしてくれてありがとう!という気持ち。
子どもを信頼するからこそ、教育や授業の可能性が大きく広がっていく。
それをもっと自分も認識していかないと行けないし、周りの人も一緒に気づいていってほしいと思う。
僕らのやっているアプローチも、すべてこのレッジョアプローチと違いはない。
「学校とは何か」という問い
学校とは文化を伝承するところか、それとも創造するところか。一般的な学校とは、文化の伝承に多くの力を費やしている。(漢字の習得、計算の習熟)
レッジョが強調する学校は、学校は創造する場所であるということ。子どもたちが自ら主体となって、文化を創造していく場所が学校である。問題を解決できることよりも、新しい問いを作り出すことができることを大切にする。子どもたちが自分の道を作り出すことを手助けする場所が学校である。
だから、新しい学校の在り方が問われる。教師のもっとも大切な活動とは、どう説明するか、どう話すかではない。最も大切な活動は、どう聞くかである。聞くとは、相手に期待するということ、相手が価値ある存在であることを認めること。子どもに教師の時間を与える(聞くこと)ことで、相手に価値を与えることである。子どもの言っていることがあっているか、まちがっているかなど問題ではない。能動的に聞くことによって、教師も子どもも学び続け、ともに学び続ける存在でなければならない。(つまり、新しい子ども観にたてば、教師も子どもから学ぶ、インタラクションな関係、ミラーニューロンの話にも)お互いに耳を傾け合う場、耳を傾け合う教育がさればければならない。
学校とはどんな役目を果たすところなのかというのも、考え方によって学校全体の実践が変わってくる。
聞くこと、聞き合うことの大切さは、今の授業でも大きく叫ばれているけれど、
やっぱり本当の意味でそれを考えていない
子どもたちが主体となって、聞く場、聞き合う場を設定するならば、本当に今の授業のスタイルはそれにマッチしているのだろうか。それを考えているようで、考えていない。慣例にそって動いているのみ。
聞くこととは教師の時間を与えることであるというところには、少々ドキッとした。聞くというのは時間のかかること。今の自分の忙しい環境の中で、本当の意味で聞くという価値を十分に発揮した聞く(listen)ができているのかどうか自問してしまう。
問いを生み出す力を大切にするということは、本当にそう思う。
学校教育で最も大切なことは、自ら問うことだと思う。
学習の意欲であり、原動力である。
これも、限定条件付きの問いを求めることが多いことがとても気になる。
クラス全体が出した問いでないとだめ
めあてにそった問いでないとだめ
具体的な問いでないとだめ
だめだめだめが多すぎる
はたして本当に問いを求めるのならば、まずは教師の脳の奥から、子どもの問いを制限してしまう教師欲求をとりさらなければならない
「子どもの問いを聞く」ことこそレッジョアプローチ
「ホーリスティック(全体的?)アプローチ」
芸術と科学を分けたのは大人
ペタゴジスタ アトレジスタ
文字とスクリブルを分けたのも大人
読むと書くをわけたのも大人
話すと聞くを分けたのも大人
科学とは細分化するということ
考えやすくなる
伝えやすくなる
けれど?
全体としてみるということ
子どもを全体としてみる
うーんこのへんはまだ難しい

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