『ブッククラブ』のセリフリフレクション

 先日、あるあるの会でブッククラブのブッククラブを行いました。
 わたしも写真で出演しているので、この本でブッククラブができることは嬉しいなあと思いました。
 子どもたちと同じように、ブッククラブのあとのセルフリフレクションをやろうと思って、指が走るがまま書いてみました。自分の教師観がすごく出てしまいました。ブッククラブは、内省を促し、考えを深める効果もあると思います。



 ブッククラブは本をたくさん読むようになるということが大きく取り上げられましたが、それよりももっとたくさん考えなければならないことは、ブッククラブに参加する子どもたち(大人も)一人ひとりが、学びの主体者になるということだと思います。それは、教える教えられる教師と子どもの一方的な関係ではなく、学習環境をチームになったメンバー全員で作っていくという経験を積んでいくことに価値があるということです。おそらく、そういう対等な関係で学習を自分たちで作り上げる経験というのは、学校生活でもなかなか経験できないと思います。通常の授業は、常に教える側と教わる側にわかれることが多いですし、子どもたちもそうやって一方向的に情報を伝達してもらうことが、学習であり授業であるということを体で覚えてしまっているので、このブッククラブのような、学習の責任の一端を子どもがもつというスタンスはもっと取り入れられるべきだと思います。

 つまり、ブッククラブがもしもうまく行ったならば、それはチームの子供達がそれぞれに個性的に活躍できたからで、もしも、ブッククラブがうまく行かなかったならば、本が良くないか、ブッククラブへの関わり方が良くないか、チームとしての機能の仕方に問題があったか、何かの原因があるということでしょう。その原因を発見して、改善して、再チャレンジする権利を子どもたちはもっています。なぜなら、ブッククラブの学習は子どもたちのためにあり、そのブッククラブは子どもたちが所有し、責任(の一端)をもっているからです。子どもたちが自分から動き出せば、何度でも本を読み直したり、ブッククラブを運営したりすることができます。教室の中心は常に子どもたちがもっているのです。

 学習の責任(の一部)を子どもがもつと言うと、教師が責任逃れをしているようにも思われてしまいますが、子どもたちは自分自身のために学習をしているのであって、その学習の所有者意識をもって学習をしなければ、それこそ、学習は空虚なものとなってしまいます。自分のためにおこなっていない(教師のために、親のために学習をしている)学習を、本当の学習と言うことはできるのでしょうか。そういった意味でも、学習の責任を教師と子どもで持ち合うという関係はベストだと思います。また、これから生涯学び続ける子どもたちが、まるで教師の所有物であるかの授業を一方的に浴びながら育ったのでは、学習は、この特殊で限定的な学び方である授業しかないと思い込み、自分から動き出して学ぶような学習の喜びを知らずに、教室を巣立ってしまいます。それではもう遅いのではないでしょうか。
 教師が学習への責任を放棄しているとは思っていません。子どもたちの学習がかんばしくなければ、それはやはり選書や環境設定、ミニレッスンやカンファランスに何か改善点があるのではないかと考えます。そして、それを責任持って改善するのがプロの教師でしょう。子どもたちの読書量や読書意欲、読書をする力は圧倒的に伸びていますが、ベクトルをさらに上向きにすることは可能でしょう。教師ばかりが学習の所有権(責任)をもつのではなく(これまでの授業は教師が子どもたちに責任を果たしているとも到底言えませんが。)、教師と子どもが共に学習へのオーナーシップ(責任)をもつということが、自立的な学習者へと育てていく上で大切であると思います。

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