豊かに生きる人が、豊かに生きようとする子どもを育てる

 ぼくは、「豊かに生きる人が、豊かに生きようとする子どもを育てることができる」という仮説をもっています。自分がたくさんの豊かさを感じていて、それを子どもたちに伝えられる人になりたいと思っています。

 学校の先生の世界でよく言われることは、自分が受けてきた授業方法で、無意識にもクラスの子どもたちに授業を行っているということです。例えば、体罰が体罰の連鎖を起こすのは、自分はそうやって育てられてきたんだから、体罰なんてあたりまえじゃないかという気持ちになる。もしくは、無意識に意識が体罰に近い状態になる。過激な例になりましたが、実際そういうことってよくあることだと思います。授業のスタイル、宿題、子どもへの指導、学習習慣、どれも、自分の育てられてきた環境からつながって、今のクラスの子どもたちに似たようなものを与えているということはありませんか?
 たとえば、学校も朝早くから夜遅くまで頑張って仕事をして、休日も返上で仕事をして、1日4時間しか寝ていなくて、本も全く読めない。家庭の時間は、家事や育児に忙殺されて、休息もできないどころか、自分の時間さえ全く取れない。そういう人が先生をやっていたら、どういう思考で子どもたちと接してしまうのでしょうか。
 その先生は、常に頑張っていて、努力をしていて、目の前のやらなければならないことから逃げずに必死にもがいている。自分は全身全霊で頑張っているという自負がある。すると、教室にいるさまざまな価値観をもつ子どもたち、様々な趣向をもつ子どもたちにも、意識的にも無意識的にも、「頑張って頑張って勉強しなさい。苦しいことにも逃げずに立ち向かいなさい。やらなければならないことは、やらなければならならない」と、自分の心のなかにある声に突き動かされて、子どもたちと接してしまうのではないでしょうか。子どもたちの声や思いを教師が知ろうとする前に、その先生がもっている「あるべき」像を、子どもたちに強いてしまう。しかも、無意識に、善意で。
 確かに、上のような先生で人生が豊かになる子どもが絶対にいないということはありません。厳しい先生に出会えて、厳しく叱られて、厳しく鍛えなおしてもらいました。という大人は結構いると思います。その大人は、自分の出会う子どもを、厳しく叱り、厳しく鍛えなおして育てていくと思います。無意識に、善意で。その子どもは、厳しく叱りつけ、厳しく鍛え直すことが、その子の「良い人生に」につながると考えています。なぜならば、厳しく教えられることを否定することは、かつての厳しい先生を否定すること以外にも、「厳しく教えられてきた自分のこれまで」を否定することにつながるからです。自分を否定することは、できるようでなかなかできません。
 では、甘い言葉で野放図に育てればよいのか?そういうことでもないです。野放図に育てることがどういうことにつながるかは、厳しく育てることよりも、ひどい有様になることは簡単に想像できます。そういう厳しいか甘いかの二元論で語るものではありません。
 大切なことは、先生の有り様が、子どもたちに、次の世代に伝播していくということだと思います。こころの深い部分に染みこんでいく。それは、否定的なものも、肯定的なものもすべて。
 だから、子どもの前に立つすべての人が考えなければならないことは、自分の充実した人生や充実した生き方を子どもたちの前に示すことで、少なからずそれが心根に染みこんでいく。生きることを楽しんでいる大人を子どもたちはたくさん見ることで、自分はどうしたらこの人達のように充実した人生を楽しむことができるのかを考えるようになります。やはり、大人は子どもたちに、内容でも方法でもなく、モデルを示すことがもっとも大切なんだと思います。
 自分は豊かな人生を送っていると胸を張って言える人はすくないかもしれませんが、豊かな生き方ができるように、みんながそれぞれ自分のやり方で、自分の目標に向かって、挑戦しているのではないかと思います。子どもたちもそれでいい。一人ひとりが、豊かな人生を送るためには、学校は、クラスは、どうしていったらよいのかを、いつまでも考え続けるのが、学校の先生の仕事なのだと思います。

 

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