自由という感覚が育てる精神性に気付いていない自分

 今朝、青ちゃんが、一人で自転車で公園に行きたいと言いました。一人で公園には行ったことがあるようなので、認めましたが、自転車をもっていいくと言うのは却下しました。行動範囲が広がってしまいますし、狭い公園の中を自転車をのりまわして遊ぶという状況が目に見えたからです。きっと、友達も自転車に乗って来ているのだと思います。
 今、遊びについての本を読んでいます。そこでのエピソードもあり、自分が小学生の時を思い出しました。
 たしかあれは、1・2年生の頃です。ドッジボールが流行り始めていて、クラスの中には最初からとても上手にボールを投げられる子もいました。ボクはと言うと、たしかあまり上手に投げられなくて、人生初めてボールを扱うゲームに苦労をしていたように思います。
 ある日、放課後に男友達5・6人が一緒にドッジボールをしようと誘ってくれて、「猛特訓」をしたのを覚えています。家からだいぶ離れた団地の道路で、ボール投げ方を教えてもらいながら、試行錯誤して、その日の夕方にはボクはすごい満足感を得ていました。最もよく覚えているのが、その日がとてもきれいな夕焼けだったことです。ボールが上手に投げられるようになったという満足感と、団地を照らす赤い黄昏とかげぼうし、信頼できる友達の背中、そういう光景が思い出の写真のように僕の記憶のなかに鮮明に残っています。
 青ちゃんの今と比較すると、格段に違います。当時の僕と年齢は同じくらい、けれど、一人で近所の公園に行く許しを得るのがやっと。ちゃんと約束(帰ってくる時間、人からお菓子をもらわない、公園以外のところには行かないなど)が書かれた紙を持たされます。普段は、放課後スクールで夕方まで遊んで帰ってきます。それも、学校の中でサポーターの管理下で遊んでいます。その方が僕らも安心です。
 小学生の当時の僕は、家からある程度離れた団地にいる、紙を持たされていない、道でボールで遊んでいる(場所や遊び方に制限がない)など、親が僕にゆだねていることが分かります。では、僕の親が寛大かというと、そういうわけではなく、いたって普通のお母さんです。それが僕が小学生の時に、一般的な母親だったのだと思います。
 青ちゃんは自由を求める年齢になってきているにもかかわらず、僕たち親が制限をかけています。今朝も自転車で言っては行けないと言いました。この本にある通り、面倒なことに巻き込まれたくないという思いがあります。自由という感覚が育てる精神性を、親がうまく感じ取り言語化できていないからか、完全に自由を軽視していますね。親の管理下(親のレール)に置くことが、子どものためになると思っています。子どもが生まれ持っている「自立的に育とうとする力」を僕自身が捉えていません。
 だから、ボクらの時代よりも、自由を謳歌できない子供時代を送っているのかもしれません。自分の行動を大人の監視から外れて、自分で選び、責任を持つという状況に身を置けないのは、不憫かもしれません。
 その本のせいで(おかげで)、僕は今朝の「一人で公園に行きたい」という青ちゃんの願いを聞き入れました。

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