阿部謹也さんの『「世間」とは何か』から簡単に。

阿部謹也『「世間」とは何か』

阿部謹也さんの『歴史のなかに自分をよむ』から、『「世間」とは何か』に至りましたが、かなり作品の雰囲気が違うものでした。前著は中高生向きに書かれた本ということで、エッセイ風にスラスラ読めるものでしたが、後著は学者が本腰を据えて一般読者に向けて書かれた本という感じで、読み応え十分のものでした。僕も、赤ちゃんを抱っこしながら随分時間をかけて読み終わりました。

阿部謹也さんの『「世間」とは何か』を読み終わりました。『自分のなかに歴史をよむ』とは違った、読みごたえのある内容でした。僕にはまだ早かったかもしれません。もうちょっと世間にもまれ、世間臭くならないと、心底に落ち着かない気がします。#阿部謹也

阿部謹也さんが、「世間」というよくわからないものを、「万葉集」の時代から「近代」そして「現代」の歴史的文学の表現を通じて、「個人」と「世間」と関係から紐解いていきます。
僕にとっては、「世間」というものよりも、「阿部謹也」という人に興味を持って読み始めたので、動機はちょっとずれていますが、この本を読むことで、「世間」ということよりも、「世間」と戦ってきたさまざまな歴史的な作家の生き方に触れることができたことが収穫でした。

吉田兼好は、「徒然草」の人。
「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」で始まる随筆を書いた人です。
兼好は、とにかく、「世間」と距離を取りたかった人に見えます。人間関係とか、堅苦しい儀式とか、金銭的なこととか。隠者という人です。
もう、世間と距離を置くためには、人里離れた場所に庵を作って、一人で住むしかない。それで、世間を無視するというスタンスを取るのではなく、そんな世間をうまく渡っていくためにはどうしたらよいかの指南書、今で言うビジネス書を書く。それが、兼好さんです。
万葉集に出てくる歌人は、基本的に歌会で読むので、歌会に出席した人に聞かせるために詠んでいます。だから、他の歌人に共感してもらえるように、浮世を嘆いたりする歌が多い。でも、どうやって、その浮世を渡っていったらよいかまで言及すると、歌として共感してもらえなくなかったり、わびさび?を感じられなくなったりするから、そこまで詠まない。でも、兼好は、どうしようもない浮世をどうやってわたったらよいかの指南までしている。それが、兼好です。世間と自分を対して考えています。兼好えらい。

井原西鶴は、「好色一代男」とか、江戸の町人の恋物語や少しH系な小説を書いた人。町人が力を持っていきいきと生活できるようになってきたので、こういう小説が受け入れられるようになってきました。
西鶴は、恋とか色とか、人が忌まわしいと感じるものの中に自然や世間があると考えていて、恋や色を通じて、世間の思い通りにならなさや不条理さを描いていきました。
エロネタなのに、よく考えると、世間の不確実性をストーリーの中に収めていっていることが、ただのエロネタ作家ではないすごい人です。
ところで、江戸時代は、あまり性に対して、タブーの感じはあまりなかったようで、男色だったり、お坊さんが色情に落ちていく物語とかも出てきます。江戸時代は、今とは相当に感覚の違いがあるのかもしれません。

漱石。「猫」や「坊っちゃん」の中に、世間を可視化して、たとえば、ぼっちゃんが世間(赤シャツやら学校やら)をやっつけようとするところに爽快さがあります。「猫」も、世間に不満を持つ先生?たちを見えるようにして、それを辛辣に切っていく猫に気持ちよさを覚えるのかな。「猫」は半分しか読んだことがないので、また挑戦してみたいと思います。

永井荷風と金子光晴は、ヨーロッパに憧れて、渡欧して作品にその経験を凝縮させた作家たちです。日本の世の中に対して、最初は嫌気が差して渡欧をするのですが、アッチに住んでみると、ヨーロッパの人間関係にも違和感を感じたり、日本の文化を見つめ直したりします。隣の芝は青いのか、ヨーロッパの先進的な文化性に浸りたいと思っていても、浸ってみたら気付くこともある。よく分かります。

日本の世間はヨーロッパの「社会」と違って、社会を構成する個人が希薄で、個人のための社会というよりかは、世間様に尽くすという感じですね。世間を常に意識せざるを得ない。でも、それによって守らている部分もあることは確実。それでも、個人を貫くために、社会をよくするために、世間様に物申すか、世間の流れに身を任せるか。まあ、両方なんですけどね。

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