暗黙知が8割 『私たちはどう学んでいるのか: 創発から見る認知の変化』より

ワークショップ

私たちは、学校文化にどっぷりと使っていて、何も意識することなくそのシステム前提で考えてしまっているので、「力」なり「知識」なり「発達」なりのイメージを限定的に捉えてしまっている節があります。

そのことを、この本が教えてくれています。「作家の時間」「読書家の時間」「社会科ワークショップ」を価値づけてくれているようにも感じます。

この本について、メモです。

「力」、「知識」、「発達」などの誤った概念

例えば、「能力」や「力」というのは虚構であり、そんな一定で安定したものは存在しないと筆者は言っています。数学的思考力を一つとっても、子どもが問題場面をイメージできるか、などの文脈によってできたりできなかったりする。もちろん、その日の体調や教室の関係など、一定と思われている「力」は全く一定の力として捉えられません。

例えば「知識」も、言葉として焼き付けているのではなく、身体化されていたものが創発されたり、環境によって埋め込まれていた情報がその人の中に呼び起こされたりします。情報は色々な感覚や周辺の情報と意識下で結びついているので、あの人の顔を見て思い出したり、現場に出ると水を得た魚のように知識が溢れ出すとかあります。だから、一人の脳の中に貯め込まれているというイメージでは全くないそうです。

例えば、「上達する」や「発達する」も、一定に同じ傾きで上達していくのではなく、プラトー(踊り場)、後退、スパートなど、揺らぎながら進んでいく。発達段階のイメージのように、階段状である段階がくればポンと次のステージに上がれるのではなく、複数のリソース(根源となるもの)が新しく入れ替わることで高まったり、または、使われなくなったリソースによって一時的に低下したりし、「上達する」のようにプラトー、後退、スパートを果たしながら、進んでいく。

一般的な学校においての教育理論って大丈夫?

例えば、算数の問題が全くできない子どもが、にゃんこ大戦争の激レアが出る確率の話をごく自然にしています。そういう子が確率を使う力を身につけているかは、「文脈に依る」という話だし、興味関心によって、その子が持っている力が解放されるのかもしれません。どんな文脈においても確率を活用する力というのは、到底修得不可能な知識や経験が必要なことでしょう。だから、「うんこドリル」みたいな発想が出てきますよね。うんこならできる、みたいな。

テストは、一定の条件下で力が発揮できるか問う設定で作られていますが、日常生活では力を発揮しているものの、テストの条件下では全く力を発揮することができず、では、そういう子は力を持っていると言えるのかどうか、考えてしまいます。反対に、テストという条件でのみ、力を発揮することができる子もいますね。テスト以外は全くできない子ども。

そもそも、学校で「力」とは、どのようなものを定義しているのか、と問われてしまいます。

よく聞くのが、学校という環境下で、教師が指導したものを、自分でどれだけ達成できているかを見るの「評価」と言いますが、自ら環境を整えることで知識や技術を高めているタイプの子ども(環境をリソースとして考える子)にとってみれば、自分の強みを取り上げられた状態で「評価」されてしまいます。その子は、知識のトリガーを外部環境から取り出すことで、自分自身のリソースを考えることに活用できるようにしている、いわば、限られた自己資源を効果的に自分の思考として活用しているにも関わらず、限られた条件のせいで、全く力を発揮できない。魚が陸上で徒競走をさせられているようなものですね。

そうなると、やっぱり、何がAで何がBで何がCなのか、何が「力」と言えるのか、全く分かりません。「力」ではないですね。「現象」です。

「作家の時間」を行っていると、よく分かります。その子が、描きたいものと出会えて乗っている時は、やっぱり文章もいいものが出る。けれど、あまり乗っていなくて、さまよっている時は、文章もイマイチ。そういうものから、「書く力」と称してAなりBなりをつけて良いのかどうか。人はそれほど、家電製品のスペックのように、一定ではありません。

徒弟制から学ぶ

僕が面白かったのは、最終章の「徒弟制から学ぶ」の部分。ここだけで、1冊書いてほしい。

参考文献 生田久美子さんの本

そもそも、従来の学校に埋め込まれている「系統性」なり「基礎から応用」なりの考え方は、近接項(自分自身が体感できる、言語化できる、意識の上っている系統性)しか考えていなくて、遠隔項(近接項の逆、暗黙知とか、非言語性知能とか、環境と結びつく知識とか)が近接項の下に根のように張り巡らされているにも関わらず、完全に無視されている。

だから、古典芸能などの修得の際には、徒弟制という方法が取られるそうだ。

師匠と一緒に暮らす「内弟子」という仕組みがある。師匠にところに学びに来る「通い弟子」は、知識伝授の時間が確保されやすいが、習得は遅い。それは、近接項についての講義はあるかもしれないが、師匠のその近接項の源となっている多くの遠隔項について、通い弟子は全く理解できない。

「内弟子」は、一緒に住んでいるので、講義の時間などは軽視されてしまいがちだが、師匠の生活の端々にその技術の遠隔項を垣間見る。形式的な講義ではない場所で、師匠の技術の源泉について暗黙的に学んでいるのである。

あ! これって、ワークショップじゃん。

僕たち教育に携わる人は、もっと暗黙知の存在を認めた方がいい。暗黙知は教育界の「ダークマター」だから、議論できないし、評価できないし、定義できないので、ないものにしているけれども、結局、「暗黙知が8割」というどこかのビジネス書みたいな感覚で僕はいいと思っています。

極論、形式知の2割の方にアクセスする指導法も大切だけれど、8割の暗黙知に働きかける環境や体験、関係など、その分からないものの存在を認めて、学校や教育について再構成することって、とても大切なように思うのです。

人は、自分自身についてわかっていない。

分かっていない何かが8割を占めているので、分かっている2割のために学校システムを作ってはいけないのです。(数字は適当ですが)

だから、「自然に帰れ」じゃないけど、フォード生産方式の人間版みたいな系統的教授法からの脱却をしなくちゃいけないんだなあと思います。いまだに口を開けば「系統性」「系統性」という人ばかりで、それより高い次元の話をしていかないといけないです。人はそれほど、システマティックに学んでいません。

僕たちが実践している「ワークショップ」には、その暗黙知の存在が認められているように思うのです。

 

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