ふと、自分の目指しているものが、少しはっきりしてきたように思います。
多様性学習をやりたい!!!
一人ひとりが、ある学習領域において、自分の学習目標をもち、自分の評価規準をもつということ。標準化という考え方を排し、多様性を意図的に担保する。多様性学習です。
それは、リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップにも、そして、Differentiated ClassroomやPBLにも重なるもの。一人ひとりが、自分の学習を選択し、自らの手でハンドルを握って、コーチングを受けながら、自分のゴールに向かってアクセルを踏んでいく。
これって可能なんではないでしょうか。
みんな大人は多様性学習やってるよね
現実的に、一人ひとりの大人はもう実現しています。TwitterやFacebookで一人ひとりが別々のタイムラインをもち、グーグルの検索結果さえ、一人一人に適した違う結果が表示されていますし、ホームページでは、その人が一番クリックしそうな広告が出る仕組みになっています。洋服は一人一人の体の形に合う採寸で作られている。
大人がたくさんいたって、テレビを見ている人なんてほんの一握り、Youtubeやamazon primeのようなサービスでで好きな番組を選んでみています。オリコン第1位なんてもう聞かれなくなりました。世界中の音楽の好きなものを選んで、そこからプレイリストを自動生成し聞いています。新聞も同じです。フィードを集めて、自分で集めた情報ソースから、自分好みのメディアを作り上げています。
ネットやデバイスの力を借りて、多様性を担保することのコストが確実に低下し、サービスを受ける側の人間にフィットするものが、低価格で売り出されるようになっています。一人ひとりに合ったものを、一瞬で、低価格で、提供しています。
そんな時代です。
学校は見捨てられる
そんな時代において、なぜ、学習目標や評価規準は、40人とも同じものでなくてはならないのでしょうか?なぜ、学習活動は全員揃ってなければならないのでしょうか?なぜ、固定的な座席に座り、同一コンテンツの教師の話を、フィードバックやシェアもできないまま、拝聴しなければならないのでしょか?化石化した伝統的コンテンツ配信です。
文部科学省が一人1つのデバイスを持たせるまで、多様性学習を待っていられません。そんなことをしていたら、子どもたちから見捨てられてしまいます。強制的に学校へ生かされて、終わっているコンテンツを聞かされるのなら、ホームスクーリングした方がいいという世の中は確実に近づいているように思います。
新しい時代の学校や教師は何をしたらいい?
そういう新しい時代に、学校は何ができるのでしょうか?
多様性のある仲間、それぞれがある学習領域においてそれぞれの目標を掲げ、お互いを励まし合いながら、時には助け、時には影響を受けながら、自分の力を高めあっていく。自分のできない学習を隣の友達は頑張っているから、それを聞きたい。隣の友達の進めている学習を自分の学習と融合させれば、新しくてみたことがないものが生まれそうだ!頑張っているあの友達からフィードバックをもらい、あの子の頑張りにエールを送る。
そういう、多様性のある学習を創ることのできる学習環境をしっかり整備し、コーチとして励まし、ナビゲーターとして地図を広げてくれ、メンターとして目標を照らしてくれる。そんな存在が教師なのだと思います。
学校の役割は、決して標準化された子どもをそだてる場所ではない。全員に学習目標や評価規準を設定している時点で、それができる子とできない子に振り分け、全員が幸せになれる環境を作ることを放棄しているのだと思います。成績をつけることなんて、もはや悪害でしかないでしょう。なんとかしなければ!!