「君たちはどう生きるか」ブッククラブ前にまとめ

子どものための読書記録

ブッククラブに参加する前に

桐朋ブッククラブに参加します。

お題は、2冊の「君たちはどう生きるか」の読み比べ

ブッククラブに参加する前に、上島珈琲でまとめ。

明日、ブッククラブ後の感想をまとめたいと思います。

コペル君はおじさんをメンターにしている

コペル君は事あるごとに、お母さんよりも、おじさんに相談をしたり、おじさんの話に耳を傾けたりしている。

中学一年生にとって、家族ではなく、少し距離のある同性の若者が、親身になって話を聞いてくれたり、自分の考え方を聞かせてくれたりすることは、本当に幸せな事だろう。家族と腹を割って話をすることは、どこか避けたい気持ちはよくわかる。家族と距離を置くことが、精一杯の反骨精神の表れなわけで、(素直そうなコペル君でもきっとそうだろう)社会に片足を突っ込んでいるおじさんの存在は光り輝いているに違いない。

そんなおじさんを、メンターとしてかかわらせてもらっているコペル君は、思春期の霧を抜けるための指針となっている。コペル君は本当に幸せものだ。

 

おじさんはなぜ、ここまでしてコペル君よくするのだろうか

逆に、どうしておじさんはここまでコペル君によくしてくれるのだろうか。

おじさんはお母さんの弟で、大学を卒業したての青年。すごい文章を書くので、少し歳をとった感じに思われるけれど、おそらくどんなに歳をとっていたとしても30はいっていないだろう。卒業をしてもわけがあって(就職ができなくて?)、お姉さんのうちに入り浸っているイメージを持っている。

コペル君のお父さんの描写はさほど出てこない。ただおじさんの話によると、おじさんは病床にあるお父さんから、息子を頼むと仰せつかったらしい。おじさんにとってコペル君は、お世話になったおじさんへの孝行なのか、それとも、中学生という多感な時期を懐かしく思ってのおじさんの好奇心なのか、そこは読者の想像に委ねられている。

読者の想像に委ねられている

そう、この小説は、ストーリーはかなり読者がそれぞれに体験している自分の少年時代と重ね合わせられるように描かれているのだと思う。あくまで、おじさんの手紙や語りが本流なのだ。おじさんの人柄やおじさんの目的は、意図的にぼやかしているのではないだろうか。

漫画版と小説版が違いすぎる

漫画版では、おじさんはかつて本の編集者をしていた人として、かなり若者というより壮年として描かれている。あれ、小説とこんなに違っていいのだろうか? 

漫画版は、小説版と細かな点でたくさんの違う場所がある。

小説版では、水谷君のお姉さんの勝子さんという人物が登場する。この勝子さんは、すごい勢いで語る本当に生き生きとした女子高生(後半では大学入学が決まる)で、コペル君のお母さんとは対照的な女性像だ。個人的には、この勝子さんは、上から的な強気のお姉さんで、ナポレオンを生き生きと語る女子高生というおもしろい人柄で大好きだった。けれど、漫画版では一切登場しない。

また、浦川君のことをいじめる山口君も、漫画版では最後まで悪そうな役で登場する。あそこまで悪そうに描かなくても良かったのに。徹底的に悪い子どもというのは、世の中には存在しない。行動を誤ってしまうだけで、子どもは無垢なのだ。それは、ワンダーのジュリアンでも強く感じた。漫画版で山口君をここまで悪役的に描くのならば、山口君の裏に流れるストーリーを描いていないと、偏った物語になるようなきがする。小説版では、山口君は確かにいじめっ子だが、いじめるシーン以外で描写は出てこない。一貫して悪い漫画版の山口君の描き方とは、まったくちがう。

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浦川君のお豆腐屋さんで働く病気の若い衆も省かれている。何だろう。差別や労働みたいな点で、描けない理由があるのだろうか?

「すいせんの芽とガンダーラの仏像」の章なんて、まるまるカットされているのはなぜなのだろう。

漫画版では、吉野源三郎さんとはちがう、作者の解釈が存分に盛り込まれていたり、時代背景の変化によって描けなくなってしまった部分があるのだろう。特に絵にすると、また問題が顕在化してしまうのだろう。

僕としては、何かもったいない感じがある。

漫画版は妙にストーリー性を意識して原作を大きく編集している。

今日は、その読み比べブッククラブということで、本当に楽しみだ。

MabelAmber / Pixabay

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