改訂新装版 テレジンの子どもたちから

大人のための読書記録

『改訂新装版 テレジンの子どもたちから』

新評論の武市さんから、突然この本が贈られてきました。自分では絶対に手に取らない本です。これも何かの縁だとうと思って、紐解いていきました。セレンディピティとは、こういうものなんだと思います。

改訂新装版 テレジンの子どもたちから新評論
極限状態の中で子どもたちは優しさと強さを失わず、平和を夢に見、命を賭けて思いを表現し続けた…20年来のロングセラー待望の新版!

テレジンとは VEDEMとは

チェコのプラハの郊外に街に、ユダヤ人の強制収容所がありました。ヒトラーの独裁政権下や第二次世界大戦中、チェコ国内やその周辺国から強制的にユダヤ人(自分がユダヤ人でないと思っていても)は連れてこられて、このテレジン強制収用施設に閉じ込められていました。不衛生で狭い空間に、押し込められて生活をさせられていました。

東に目を向けると、ポーランドの国境があります。そこには、かの有名なアウシュビッツ絶滅収容所があります。ユダヤ人が 老若男女を問わず、ガス室に入れられて、非人道的に虐殺されていきました。つまり、テレジン収容所から東へ輸送されるということは、死を意味することでした。

そんなテレジン収容所のなかに、10歳以上の男の子たちが家族から引き離されて収容される「L417」という建物がありました。その1号室で生活していた男の子たち(先生も)がこっそりと自分たちで文集を作っていました。その雑誌が「VEDEM」です。

看守に見つかれば、雑誌は没収されてしまいます。先生役を務めていた大人たちは、看守に見つからないように、ユダヤ人の青少年たちにいろいろなことを学ぶ機会を作ります。政治、宗教、音楽、文学、特にチェコは文化人が活躍する街だったので、ユダヤ系の文化人が青少年たちが人間らしさを失わないように、密かに授業を行っていたそうです。雑誌作りもその中の一つで、アイシンゲル先生や編集長のギンズ君を中心に、さまざまなことが描かれていきます。

 

どんなことが書いてあるの?

自分たちのこれまで、生活にまつわるエッセー、命について、政治的な社説や論文、スポーツやゲームなどの文化、仲間の紹介、詩や創作文、活躍するユダヤ人についてのコラムなど、内容は多岐にわたります。子どもっぽい遊び心に溢れた文章もあれば、大人も舌を巻くほどの鋭い社説もあります。創作文は、その文章の中にアイロニーやメタファーを取り込んでいて、読み手の想像を掻き立てます。これが中学生ぐらいの文章であるとするならば、明日は命を奪われるかもしれない環境の中、何かを残そうと力を発揮していった子どもたちの境遇を想像してしまいます。

VIDEMを書いた子どもたちは、今どうしている?

L417にいた子どもたちの多くは、東のアウシュビッツに送られて、ガス室に入れられて殺されてしまいました。

ただ、奇跡的に生き残った子どもたちがいました。彼らはもう高齢となっていますが、筆者がその方々を訪れて取材をすることで、この本の記述の真意が明らかになるなど、当時の子どもたちが綴った想いが紐解かれているそうです。

子どもたちはどんな環境で書いているの?

これは僕の想像も入っているのですが、子どもたちは、当時ナチスがユダヤ人の粛清を行っていたことは分からないまま、このテレジン強制収容所に連れてこられているのだと思います。その後、テレジンで出会ったユダヤ人の大人達から秘密の授業などでいろいろなことを教わることで、段々と今の現実を少しずつ感じていったのではないかと考えています。

当時のユダヤ人の家族は、ニュースなどから、ユダヤ人がナチスや社会から差別的に扱われていることは感じてはいるものの、まさか自宅に秘密警察などがやってきて連行されてしまうとは、思ってもみなかったようです。大人のでもそうなのですから、子どもならば尚更。自分がどうして、のどかに暮らしている家から、突然テレジン強制収容所に連れてこられて、親と引き離されて劣悪な環境で生活しなければならないのか、意味も分からないのだと思います。

そんな中、子ども達は、文章を書いているのです。

テレジン収容所という場所は、対外的にユダヤ人の虐殺を隠蔽するために、諸外国からきた使節団を迎えて、意図的にユダヤ人が文化的な暮らしをしているように見せかけたり、子どもたちが元気に暮らしているように見せかけたりするためにも使われていたそうで、そのために、見せかけだけは、行事があったり、娯楽があったりしたそうです。ただし、使節団が一人のユダヤ人の子どもも救うことはできませんでした。使節団が帰れば、よくて非人間的な暮らしが待ち、悪ければ西のアウシュビッツへと輸送される。それが、VIDEMを描いた子どもたちの環境です。

今の子どもたちとVIDEMの子どもたち

こんな明日の身の安全も分からない中学生の年代の子ども達が、ライティング・ワークショップとも言える雑誌作りを行っています。日常生活のリアルをユーモアを交えて表現し、研ぎ澄まされた言葉で詩を紡ぎ、子どもとは思えない高い視座から社説を書いています。

僕は、このような死といつも隣り合わせの子ども達を境遇を、うまく言い表せる言葉を持ち合わせていません。日頃学校という環境にいると、それに合う言葉しか自分が持ち得ていないことに気づきます。テレジンは、子ども達が書くというクリエイティブなエネルギーと、苦しみや痛み、死という絶望のオーラが、ないまぜになる特殊な環境です。すぐ側で死が佇む中でも、あれほどのイマジネーションを広げて生き生きと筆を躍らせる子ども達の筆力には、ただただ嘆息するばかりです。

教師目線で子ども達の文章を読んでしまいます。アイシンゲル先生や先生役を務めた文化人は、どのような思いで子ども達と向き合っていったのでしょうか。この部屋の子ども達が命を燃やすことができている今を大切にするために、科学や社会などの教養、演劇や芸術を伝えていきました。今をより人間的に創造的に生きるためだろうと思います。

私たち先生は、子ども達の今をもっと魅力的に輝かせるために、授業を行えているのでしょうか?どのような価値を伝えていけば、子ども達は自分の命や今を大切にできることができるのでしょうか?

「中学でも出るから」、「大人でも使うから」、「将来役に立つから」ということを考えられるのは、数年後も平和であることを予測できるからです。しかし、この本を読むと、明日の我が身の行方がわからない環境で、子ども達の筆力は卓越しています。決して特別の子どもが集められているわけではないのに、思考が深いのです。

現代日本の子どもたちとテレジンの子ども達を並べてはいけないと思いますが、テレジンの子ども達とこの本を通じて出会うことができてよかったと思っています。

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