友情・協力・努力 分かりやすい感動キーワード
友情・協力・努力、そんなキーワードが並ぶと、僕も含めた多くの人が、簡単に感動モードに陥ってしまう。自分の多感な時期に経験した原体験と、ストーリーの主人公の葛藤が、水面下でシンクロするのだろう。
でもはたして、本当にそのような作品は良い作品といえるのだろうか?
漫画版「君たちはどう生きるか」でクローズアップされているのは、コペル君と北見くんの人間関係の変化、お父さんの遺言を受け継ぐおじさんの思い、おじさんとコペルくんの師弟関係。
なにか、安易に読者に涙を流させよう、心を揺さぶろうとする圧力を感じざるを得ない。読者を感動モードにスイッチを入れて、『良い作品』『口当たりのいい作品』に再構成している。意図が見え隠れしているか、むしろ、意図丸出しの印象もある。
一方で、吉野源三郎の小説「君たちはどう生きるか」には、「読者にこうなって欲しい」、「読者にこう感じて欲しい」という圧力をあまり感じなかった。サジェスチョンを投げかける役割にとどまっている。
漫画版は分かりやすい、感動しやすい作品。
小説版では、上級生に取り囲まれた後のコペル君が謝るシーンでも、北見くんは驚くべきほどにサラッとしていて、「そんなこと何も考えてないよ」といったあっけらかんとしたおおらかさが、逆にグチグチ悩んでいたコペルくんの対比されていて、気持ちがいい。
ところが、漫画版では北見くんはかなりコペルくんとの関係を気にしている様子で、表情を歪ませたりする。それでも、コペルくんを許すという葛藤がある体で描かれていて、じつはこちらの北見くんは、サラッとしていない。
小説版では、おじさんとコペルくんとの関係は、事実が並ぶだけでサラッとしているが、漫画版では、おじさんの思い、亡くなったお父さんの思いみたなものを全面に押し出し、おじさんの意図がはっきりと読者に分かるように構成されている。
つまり、漫画版はわかりやすい作品に仕上がっている。そして、感動する(のかなあ?)
知的好奇心を揺り動かす本でよいのでは?
僕にとって「君たちはどう生きるか」は、知的好奇心を揺り動かす本だ。とくに、ストーリー性や人情ドラマは強調されなくていい。おじさんの手紙の中の語りと、コペル君の体験したことが、読者自身の体験を媒介にして、ゆるやかにつながるように構成されている。そこに、感動してください圧力はない。
卒業式とブッククラブのシンクロ
人は結構簡単に感動モードになる。合唱コンクール、運動会の組体操、卒業式の呼びかけ、感動することは良いことだと思うけれど、感動させようとする過度な編集は、読者一人ひとりの多様な受け取り方を潰してしまうことになり、参加者にとっても参観者にとっても、ボラリティの高いものになってしまう。つまり、「すごくよかった」か「ぜんぜんだめだった」か。
自分の中で意味を作りだすことを尊重するという行間は必要ないだろうか? ブッククラブで『僕たちはどう生きるか』の話が一通り終わった後、卒業式の出来の話になったが、僕はこの本と卒業式の話題が、不思議とシンクロして聞こえた。どちらも、行間を埋めるようなお涙頂戴編集は、何か一方向に動く魚群を思わせて、考えてしまう。
、
消すのがもったいないので、
漫画版と小説版は大きく違います。
漫画版「僕たちはどう生きるか」は、著者や出版社の一つの解釈であって、小説版をできるだけ原著を尊重して漫画化したものではなく、大胆に編集されているものです。だから、漫画版でお手軽に「僕たちはどう生きるか」を読みたいというのならおすすめですが、吉野源三郎の「僕たちはどう生きるか」を読みたいのであれば、漫画版を選んではいけないように思います。
ステーキを食べたいのに、ステーキ味のスナックを食べるようなものです。ステーキ味のスナックを食べたいのであれば、どうぞ。ステーキを食べたい人は、ステーキを食べたほうが良いと思います。
ちなみに、ポプラ社版と岩波版も違います。ポプラ社版は読売ジャイアンツや南海ホークスが出てきますが、実は原作により近い岩波版は、早慶戦になっています。さらに、主人公の名前の表記さえ違いました。ポプラ社は本田純一、岩波は本田潤一。より子どもたちにも読みやすいように配慮したのでしょうか。
コメント