問題解決的学習だけでは不十分
よく教材研究された問題解決的学習があります。子どもたちの力は確かに育っているように見えますが、私は子どもたちの真の学ぶ力は、問題解決的学習だけでは不十分であると考えています。
上の本を読んでいたら、書きたくて仕方がなくなったので、勢いで書いてしまいました。テーマは「プログラミング」や「スクラッチ」ですが、それをコンテンツにしながら、子どもの成長や教育について本質をついた言及がされているように思います。
それでは、問題解決的学習ではどうして子どもは真の学ぶ力を十分にそだてることはできないのでしょうか?
オンラインゲームと問題解決的学習
問題解決的学習は、よくできたオンラインゲームと似ています。
目的や目標はあたかも自分で設定したかのように明確で、ゲームデザイナー(教師)の設定したルールを逸脱することはできません。けれど、一部のプレイヤーは、あたかも自分がゲーム世界の中心であるかのように振る舞うことができます。
しかしそれは、幻想に過ぎません。一部のプレイヤーは幻想であることに気づきつつも、プレイヤーはゲームの中心にいることが楽しいので、それを止めることはありません。冒険の目的(学習問題)は、「自分たちが作った」という美辞麗句に彩られ、その問題が本当に自分のものになっているのかをクリティカルに振り返ることはありません。
学習の消費者から、生産的な学習者へ
ゲームクリエイターから提供されたコンテンツを消費し続け、あたかも生産的な活動がなされているかのように設定された世界で楽しんでいるのです。ゲームの世界では生産的になれても、子どもたちは、結局のところ、学習の消費者という枠組みから抜け出すことはありません。
子どもたち自身が、どんなに稚拙でも、どんなに小さな一歩でも、コンテンツを創り出す側にならなければ、子どもたちは自分の学習が自分のものであることの価値を実感することはないでしょう。それは所詮、作られたゲームの上で生産的に振る舞っているだけで、ゲームから降りてしまえば、自分から問いを見つけ出し情熱を持って探究することはできないでしょう。他のゲームに鞍替えするぐらいが限界かもしれません。
事前に予測できない力をはぐくむ学習は、学校教育には向かないのか
現状の学校では、(個人としての)自分で問いを発掘し、それを探求していく時間が、あまりにも軽視されすぎています。
なぜ、軽視されすぎているかといえば、それは、それでは子どもたちが学習から何を学び取ったのかが、教師は事前に予想し計画することが難しいからです。つまり、教師が子どもたちにどんな内容を学ばせたいかの年間計画や単元計画を立てることが難しい。創造性という見えにくい学力を、さらに計画的に学習することが難しいので、比較的見えやすい力を計画的に学ばせられることのできる(と信じられている)問題解決学習を重用しているという実態はあるように思います。
読書感想文の定型文と問題解決的学習
同じような例を最近感じています。
問題解決的学習は、読書感想文の定型文通りに感想を書けば、夏休みの感想文が比較的かんたんに終わることに似ているように感じます。
本を読んだきっかけから始まり、あらすじを立て、印象深い場面と自分の体験をつなぎ合わせ、本から学んだことで締める。そのようなワークシートを作り、読書感想文に添付すれば、一定以上の書く力があれば、トントンと書き終わり、パット見て良さげな読書感想文が出来上がります。
しかし、その読書感想文に熱量はなく、その子らしさは消え失せています。ツルッとした仮面をかぶった子どもの文章を読んでいるかのようです。
私たち教師は、そんな読書感想文を望んでいるわけではありません。
幼くても、無様でも、本と格闘し、諦めては進み、読了した喜びを感じられるような文章を望んでいるはずです。文章量が足りなくても、その子自身の言葉を使って感情を表現し、本と出会えた喜びや迷いを表現できていれば、その子の文章には、真に価値があります。
私たちは、読書感想文ライターを育てたいわけではなく、本を読んで心を震わせられる人を育てたいのではないでしょうか。
プロジェクトを通した学習
僕自身の答えは、やはりプロジェクトを通した学習の中にあります。
子どもたちのオウナーシップや自由を拡大する規制を採用した学習環境を作り出し、公園で遊ぶかのように学習を楽しむのがプロジェクト。
これからもプロジェクトは続けていこうと思います。
以下、本のメモ
クリエイティブ・ラーニング・スパイラル
- 発想 (Imagine)
- 創作 (Create)
- 遊び (Play)
- 共有 (Share)
創造的な学びの4つのP
- プロジェクト (Project)
- 情熱 (Passion)
- 仲間 (Peers)
- 遊び (Play)
ピアジェの構成主義学習理論によれば、子どもたちは能動的なビルダー(構築者)であって、能動的な受取人ではない。
電子部品がますます小型化し、安価になるにつれ、ますます多くの計算能力が玩具に詰め込まれています。しかし、子どもたちはこうした玩具とやり取りして、一体何を学ぶのでしょうか?
コーディングを、文章を書くことの延長線上にあるものと捉えています。
生徒たちはプロジェクトを行うことで、正確に何を学ぶのかを事前に予想することが難しい。生徒たちには、特定の概念を強調するようにデザインされた、指示と問題解決活動のしっかりとした流れがセットで与えられます。…表面的には、この方法は理にかなっているように見えます。しかし、生徒たちがそれぞれ独立した問題を問いた場合、彼らはしばしば独立した知識を得るだけで終わってしまいます。なぜその知識を学ぶのか、あるいはそれを新しい状況にどのように応用すればよいのかに対する理解は書けたまま、ということが多いのです。
学習者の自由を拡大するような規則を採用した学習環境を提案しています。
スクラッチ・オンラインコミュニティを開発した際の最優先事項は、気遣いの文化(Care)を醸成することでした。コミュニティのメンバーがお互いを、尊重し、支援し、気遣う環境です。
良い教師や良いメンターの役割
- 触媒 きっかけを提供
- コンサルタント 側に立つガイド
- 媒介者 学習者と一緒に作業してくれる他の人をつなぐことです。
- コラボレーター
創造性は笑いと楽しみからもたらされるものではなく、実験すること、リスクを取ること、限界を見極めることから得られるのです。
ティンカリング 思いつくままにあれこれ工夫を重ねて改造を行っていくこと。
- パターナー 構造とパターンに魅せられ、ブロックやパズルで遊ぶことを楽しみます
- ドラマティスト 物語と社会的交流により多くの興味を持ち、しばしば人形やぬいぐるみを使って遊びます。
学校は、ティンカラーよりもプランナーを好む それが、多くの子供達が数学と科学によって意気消沈させられる大きな理由です。
学校は創造的思考を測定する方法を知らないので、かられはより簡単に測定できるものを測ることになるのです。
子どもたちが学んだものをただ数字を通して測定する代わりに、魅力的な例を通して子どもたちが何を学んだのかを記録する必要があるのです。…ポートフォリオや非定量的なエビデンスは、他の文脈でも非常に成功していることが証明されています。
レッジョでは、街が子どもを育てるだけではなく、子どもも街を育てるのです。
教師の物語に参加するか、それとも、探究的な学習で自分の物語を創り出すか。
— トミー (@tommy32wider) August 31, 2018
例えれば、たしかに、良くできたオンラインゲームで遊ぶのは楽しいし、相互交流できるし、悪くないと思うけど、やっぱりどんなに稚拙なゲームでも自分で作ったら違う世界がみえるはず。
子どもたちは小さい頃から、主体者になる経験が必要なんだと思います。
— トミー (@tommy32wider) August 31, 2018
問う側になるというのは、学習の主動者になるということ。学習の消費者から、学習のクリエイターになるための道具ですね。
— トミー (@tommy32wider) August 31, 2018
問題解決的学習は悪くないんだけど、やっぱり、それだけでは学習の中で消費者にしかなれない。(子どもから出た風の)先生の考えた学習問題をみんなで話し合ったところで、問う側に回れるのは極一部。
問う側、つまりMakerになれなければ、学習は消費するのみ。
子どもの問いが良い悪いの問題ではない— トミー (@tommy32wider) August 31, 2018
「コーディングを学ぶ」のではなく、「学ぶためにコーディングをする」
ライフロング・キンダーガーテン 創造的思考力を育む4つの原則 https://t.co/nymSlZRDq8 #Amazon
— トミー (@tommy32wider) August 26, 2018
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