「ワークショップの学び方」は指導案で表現できるのか

ライティング・ワークショップ

これはWW/RWのブログのために書いた記事の転載です。

自分のために、ここにも残しておこうと思います。

「ワークショップの学び方」は指導案で表現できるのか
先日、同じ市で働く先生からご連絡をいただきました。その「 ワークショップの初学者」という先生は、『作家の時間』 を研究授業で行うそうで、 私に指導案を見てほしいという依頼の内容でした。私は、 その方の目指す授業をオンライン・ミーティングで伺...

「ワークショップの学び方」は指導案で表現できるのか

 先日、同じ市で働く先生からご連絡をいただきました。その「ワークショップの初学者」という先生は、『作家の時間』を研究授業で行うそうで、私に指導案を見てほしいという依頼の内容でした。私は、その方の目指す授業をオンライン・ミーティングで伺い、自分の経験を少しお話しさせていただきました。

「ワークショップの初学者」先生から、研究授業が終わった後、ワークショップの指導案を作成したことを振り返って、コメントをいただきました。まずは、ご本人の許可を頂きましたので、こちらに紹介させていただきます。

 ワークショップとして行うものを指導案に書き起こそうとすることはとても難しかったです。なぜなら指導案というものそのものが旧来の指導観、授業観にのっとったものであるからです。書き手はもちろん、読み手を意識します。そのときに読み手に誤解を生まないよう、読み手から生じる疑問や疑念をなるべく排除しようとします。そう考えれば考えるほど、記さねばならぬものが増えて、またさらにその説明が増える….そんな悪循環のように思います。
 授業というものは、教師と子どもたちとのやりとりの中で成立していくものであり、変動性と不確実性と複雑性と曖昧性をはらんでいるもの(まさに今話題のVUCA!)です。
 しかしそうは心では分かっていても、見られる、吟味される、評価されるという余念がよぎり、どうしても旧来の学習スタイルから脱却できないままにいるのではないでしょうか。

 

 私は、自分自身が10年以上前に、『読書家の時間』の一場面であるブッククラブで研究授業(4年生)を提案したことを思い出したのと同時に、そのときの違和感についても蘇ってきました。『作家の時間』や『読書家の時間』は、指導案という形でその良さを伝えることができるのでしょうか?

「ワークショップの学び方」を指導案で表現するときの問題点

 指導案という様式に「ワークショップの学び方」を焼き付けようとするときの問題点として以下のようなことが挙げられます。おそらく、まだ挙げきれていない点が多くあると思います。

「集団全体の平均としてイメージした子どもの姿(アセスメントの視点の欠如)」
「教師が決めた明確で具体的な(教師の計画通りに子どもを育てようとする)目標と評価」
「構成的な(子どもの裁量権の狭い)学習展開を表現する様式」
「1時間で成果が出ることが前提(多様な子どもの学習ペースは切り落とされる)」
「どの子も同じように共通の学習が起こることが前提(本来、学習は固有のもの)」
「児童全体への指示や支援がベース(その子どもにちょうど良いサイズ支援の欠如)」

「丸いもの」を「四角い型」に押し込んでいく

 私自身が指導案を書いた時も、子ども一人ひとりにカンファランスを行う普段の『読書家の時間』を、どうしても指導案に焼き付けることができませんでした。ワークショップという「丸いもの」を指導案という「四角い型」にはめ込むことで、全く違ったものに変形してしまうようでした。

 

 それは、40人の子どものすべてに当てはまる支援や評価など、考えることができなかったからです。いろいろな本を自立的にペア読書をしていた子どもたちに、どのような学習課題を立てればよいのでしょうか? それよりも、ペア読書の様子やペア読書ログを観察し、その話の内容のどこに価値があるのかを照らし出したり、困り感に寄り添ったりすることの方が、実在する子どもの支援に繋がります。

 

 また、指導案という様式は、なんの経験もない無垢なキャンバスに色をつけていくように、計画的に系統的に子どもの力をインストールすることが建て付けとして組み込まれています。それにより、子どもが持っている経験や興味の違い、子どもたちが心地よいと思うペースの違い、子どもが寄り道をして教師のねらい以外の力が芽生えたりすることは、無いこととされてしまいます。子どもをゼロから意図的・計画的に育てることが、大前提なのです。その余白のなさも、ワークショップの学び方と、うまく結びつきません。

 

 本来、学習とは固有のものです。「子どもの内面(経験、感情、認知)」、「共に学習する子どもの働きかけ」など、教師だけの都合で、子どもに注ぎ込めるものではありません。それを、おこがましくも「教師」と「学習対象や方法」などの教師がコントロール可能な変素だけで考えてしまうと、子どもの内面がどうあるのかには関心が届かず、子どもの内面に土足で上がり込んで学習対象を乱暴に放り込んでいくことになってしまいます。子どもを思い通りに動かすことが学習であると思い込み、教師のポジション・パワーが支配する教室になるでしょう。それでは、ワークショップの学び方が目指すマインドセット「自立的な学習者」は育ちません。

 

 10年以上前、かつての私が苦心してとった行動は、「岡田淳の著作でブッククラブ」という比較的構成的な活動を切り取って、一つの単元として見立てて、指導案様式に落とし込むということでした。それでも、「国語ではなくて特別活動のようだ」と、当時の先生方の中には、国語として認識してもらえないこともありました。もちろん、多くの先生方にまだ目新しさのあったブッククラブという活動を提案できたことの功績は、手前味噌にはなりますが、今振り返っても大きかったと思っています。その後、だんだんと、ブッククラブ(読書会やリテラチャー・サークルなども含めて)の活動が、読書教育畑ではない先生からも見られるようになっていきました。

Satisfaction Health Pleasure Smile  - geralt / Pixabay

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どうやって未来の指導者に伝えていけば良いのか?

 そうは言いつつも、私も教員歴20年、指導案を作り続けてきました。指導案を通じて、子どもにとって価値のある目標は何なのか、子どもが学びやすい学習の構造はどのようなものなのか、考え続けてきました。指導案作成がなかったら、「この教材をしっかり掘っていこう」と深い教材研究に挑戦することができなかったかもしれません。指導案という箱が完璧では無いと分かりつつも、一つの教材としっかり向き合ったり、授業について入念な準備を行うことについては、その価値を否定する物ではありません。(「サスティナブルか」と言われたら、閉口せざるを得ませんが。)

 しかし、指導案の作成だけで、これまで多くの時間が取られ、精神的にも肉体的にも疲労が積み重なったことも事実。それでは、どうやって、授業というものを、より再現性の高い状態で、未来の指導者に伝えていけば良いのでしょうか?

 

 それについては、またの機会に、述べていきたいと思っています。

(写真は京都五条大橋から見えた夕暮れの鴨川です。義経や弁慶が出会った橋だそうです。)

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