『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』『AIに負けない子どもを育てる』とオウナーシップ

大人のための読書記録

 

まえがき

どんなことを書こうか散々迷って、定まったら、一気に書き上げ、こんなものができました。先日の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』ブッククラブ、さらに赤い本の『AIに負けない子どもを育てる』を読み終え、これを題材にブログをかいたらこんなものができあがりました。

大人のブッククラブで生まれる3つのメリット

これを読んで考えたことは、この1つのブログの10倍はあります。でも、書けないので今思いついたことだけを書き留められました。

この本は、2冊ともとても良い本でした。途中で変な気持ちにならないで、2冊とも最後まで読んでほしい。作者、新井紀子さんの子どもを思う気持ちには愛を感じ、ナンシー・アトウェルを彷彿とさせます。自分とは少し意見が違いますが、新井紀子さんは、確実に教育を前進させる一人で、注目していきたいと思います。

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子どもにオウナーシップはあるか?

作者の論から自分の教育観を見てみると、これでは子どもは野放図で育たないと言われてしまうかもしれない。作者の提案する授業構成を見ると、教師の明確な指導の下、活動をかなり絞って行わせ、教師が意図する力を育てていくものになっている。ぼくから言わせてみれば、そこに子どもたちのオウナーシップはない。

読解力を育てる受動的主体性が発揮された授業

作者は、子どもたちの主体性にまかせると、読解力は育たないという考えのもと、具体的な活動例を示して、読解力を育てる授業を提案している。ぼくは、読解力の大切さについては、とても納得しているし、探究的な学習を行う前に、読解力(書かれている意味を正しく読み取る力)を育てるべきだという意見にも、ある程度納得している。僕の考えでは、そういうインストール型の学習と探究的な学習は同時並行で行えばいいと思っているし、論理国語のような学習は、教師の構成的な学習のもとでないと、子どもの力の把握は難しい。

読解力が育った事例にはオウナーシップがある

けれど、『AIに負けない子どもを育てる』(赤本)に出てくる大人が読解力を高めた事例の大きな特徴は、その方がリーディングスキルテストの作成に関わることで、そのプロジェクトを自分のものと捉え、夢中になってテストを開発したり改善したりすることで、論理的な読解力を育てていったということではないだろうか。

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オウナーシップがなければ、誤学習する

子どもたちが読解力を鍛える学習を、教師の強い指導力の下、行っていったとすればどうなるだろうか。子どもたちは、最初は目新しい学習で効果もあるかもしれないが、徐々に学習に対して意欲を失っていき、暗記やテストだけ解ける表面的な力を誤学習してしまって、作者の言う本質的な読解力を身に付けずにおわってしまうように感じる。

探究と教師主導はハイブリッドできる

子どもたちが望む探究的な学習を行えている状態で、読解力を育てるための助言や小さなレッスンを挟んでいき、自分たちの探究的な学習がさらに躍進されることが理解できれば、これはとても効果の高いものになるだろう。けして、児童中心主義の探究的学習と教師主導の指導は、水と油の関係ではなく、ハイブリッド可能なものであるように思う。

人間の力は衰えているのは、受け身だから

作者は、今の学校で行われている暗記力を鍛えるだけになっているワークシートやテスト、中途半端なアクティブラーニングを批判しながら、板書やノート指導など、昔から大切にされてきた学習方法に再び光を当てるものになっている。ある程度納得できる。僕も読んだ阿部謹也さんの意見である「学生の学力が下がったのは、生協にコピー機が導入されてから」という意見にもある通り、人間は少しずつ力を失っていることも事実だろう。かつての人間は、伝承によって正確に物語を後継につないでいったのだから、相当な力だ。けれど、それは、僕の推測だと、学習がより受け身になっていったことと、深い関係があるように思う。

阿部謹也さんの『「世間」とは何か』から簡単に。

阿部謹也「自分のなかに歴史をよむ」で、歴史家ってどうやって歴史を学んでいるの?

意味や価値を見出しているか?

学習に意味や価値を見出し、貪るように読んだものはその人の血肉になるだろうし、ノート提出や暗記のためだけにコピー機で情報だけをすくい取っておくのであれば、その程度の理解にしかならないのは当然だ。その人が、今行っている学習にどれだけの意味や価値を見出しているかということは、読解力だけでなく、子どもの力を高めていく上で最も大切なことであるという僕の主張は、やっぱり変わらない。

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やりたいことをやっているばかりでは育たない

しかし、再考のチャンスをもらえたのは、子どもがやりたいことをやっていただけでは、絶対に育たないということ。教師のようなその子の力を適切に判断できる人が側にいて、やりたいことをやれている状態の子どもに対して、適切に助言・指導ができなければ、力を伸ばすことはできないだろう。

自己実現に近づける副次的存在の学校、主たる活動は家

昔は、学校で学ぶということは、子どもの主たる活動ではなかったはずだ。子どもは家族とともに畑を手伝い、家業を手伝い、生計を立てていて、それが主たる活動だったはずだ。その活動が、学校で学ぶことによってより良くなる、もっと自己実現に近づけるということで、学校で学ぶということを副次的な活動として捉え、教師から学び、自己研鑽を積んでいったはずだ。学校と自分がそういう関係ならば、子どもの力は伸びるはずだ。オウナーシップ(主体者意識)がまるで違う。学校で学ぶことに、意味や価値を感じることができるからだ。

読解力も学習にオウナーシップがあることが前提

学ぶこと自体に、意味や価値を感じられるかどうか、学習を自分と直結するものと考えられるかどうかで、子どもは学習活動から得られる力を自分の糧とできるかどうかに、直結して作用するのだと思う。現状のアクティブラーニングは子どもが意味や価値を捉えられないから効果は薄く、テストは自分の将来に影響が出ることは子どもは身にしみて分かっているので暗記力だけは強くなり、それはせっかくの明らかにされた読解力も同じような結末になる恐れがある。

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どんな状況下においても発揮できる汎用的読解力など、ない

赤本の最後に出てくる「自主学習することができる基礎的・汎用的読解力」を身に着けた美容師のエピソードに、ぼくはとても共感している。そう、意味を見いだせるオウナーシップの高さがまるで違う。彼は美容師で本当に良かった。本には彼が有名大学を志望したら合格できるようなことが書いてあるがそうではない。それに彼が意味を見出すことができなければ、きっと読解力を活かすことができないように思う。人の力はそれほど、オウナーシップに影響を受けていると言いたい。

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