『Writing Clubs』ブッククラブもこれで最後です。
英語の教育書のブッククラブは、大変だけれど、やりがいがあります。常日頃、英語で情報を得ている人たちは、良い意味でも、悪い意味でも、住んでいる世界が違うので、新しい情報に触れることができます。明日からすぐに役立つ情報ではないですが、教育の何かを変えるきっかけになるような、刺激的な内容ばかりでした。
日本語に訳された教育書を読むときに、どこか違和感があることが多いですが、原文はきっとこんな言葉なんだろうなあと、イメージを持ちながら翻訳書を読めるようになるので、英語の教育書を読む機会があると、翻訳書の理解も増すのではないでしょうか。
オーセンティックな国語とは
僕の最近の流行りの言葉である「オーセンティック」。話者にとって、いろいろな意味で使われているでしょうが、僕の場合は、教師が加工しすぎて現実場面とかけ離れてしまった教材や学び方ではなく、子どもたちが生活に結びつけやすい、という意味で使っています。
オーセンティックな算数の学びの著者である小野健太郎さんは、学問的にオーセンティックであることも大切にされていました。
作家クラブのなかでも、国語のオーセンティック性を感じています。これまで読んできた本から、好きな作家を選びます。そして、その作家の作品に浸るだけでなく、
- その作家の技を見習う
- その作家が作品を作るときに行なっている習慣を学ぶ
- その作家の生き方を真似する
のようなことをしています。それを、クラブで行なっているので、クラスメイトや好きを共有できる仲間と学んでいるので、他の人の視点で作家を見たときに多様な作家観や、協力して作家を理解していくスキルも学んでいきます。
『Writing Clubs』で描かれている国語に、オーセンティック性を感じています。「宮澤賢治」ももちろんすばらしいですが、そこに意味を感じられる子どもは少ない。東野圭吾とか池井戸潤だったら、やってみたい子供はいるかなあ。これまで、「読書家の時間」をやってきたならば、好きになった作家でやりたい子は結構いるはずです。
「宮澤賢治を読む」となると、どうしても、自己犠牲とか、郷土愛、自然に向ける眼差しとか、どうしても教師っぽいねらいが加味されてしまいます。ゴールが決められてしまう。『Writing Clubs』の場合、自分で作家を選べることや、そこから何を学ぶかも、子どもたちに任されている。学びに向かう姿勢だけが、教師のモデルによって示されている感じです。
最近では、作家のインタビュー記事がすぐに手に取れたり、動画で見られたりしますので、「宮澤賢治」でなくても、学習として成立できる可能性は増しているのではないでしょうか。Twitterやっている作家も多そう。そういう視点で作家の作品を読むことでも、ただ読むことだけでは得られない考えが得られそうです。
私たちの国語は、本当にオーセンティックであるといえるでしょうか?
もっとオーセンティシティを高められる学び方はないでしょうか?
「正しい」を強いること
Convention Clubsで印象に残っているのが、学習において「正しい」とされていることについての向き合い方です。
私たちの学校では、句読点や綴り(日本語で言うなら漢字の書き方など)は、「正しい」とされているものがあり、それから逸脱すると、それを「正す」ということが、教育上適切であるとされています。それは、句読点や綴りだけでなく、もしかしたら、他のことについても、学習全体を覆っている雰囲気でもあるかもしれません。
invented spelling と言う言葉があるそうです。つまり、「綴り方を発明する」ということ。「間違い」とするのではなく、見つけているプロセスであるとポジティブに捉えるわけです。
漢字の書き取りでも、バツをもらうとガッカリします。それを繰り返すと、漢字に対してマイナスの態度で臨むことが常態化してしまったり、それが漢字だけでなく、書くこと、表現すること自体にも影響を及ぼしかねません。バツは、子どもたちの受け取り方次第で、教師の思惑(正しい漢字を覚えてほしい)を外れて、学習全体を侵食するものになる可能性があります。
invented spellingの発想では、正しい綴りに向かっているとする。具体の教師の姿は、イメージしにくいですが、僕の勝手な想像では、スルーしたり、自分で気づけるように支援したり、下線を引くにとどめたり、バツのマイナスの効果をできるだけ抑える意識で動くのだと思います。
『Writing Clubs』の中でも、句読点の打ち方を実験したり、遊んだりする場を設けて、どのような句読点の打ち方をしたら、相手がわかりやすかったり、または意外性があったりするかをクラブの中で学ぶそうです。たしかに、正しいとされている方法では、インパクトが薄い場合もあるかと思います。完全に正しくはないが、印象深い表現というも実際にはあり、そこをねらって本物の作家も表現を工夫していると言うことはありますね。
たしかに、すごく回り道をしているようにも感じます。「正しい」んだから教えちゃえばいいじゃん。おそらく、「正しい」とされる他者が作った基準に対してどのように向き合うかという、学習者としてのマインドセットも伝えようとしているのだと思います。そこに時間をかけるだけの価値観は、少なくとも日本の国語にも僕の実践にも、ありません。「自立」とか「主体」とか、本当に学習の
また、小さな子どもが間違った言い方をしていることを訂正したりしません。なぜかうちの子どもは、提灯や灯篭のようなものを「ボンボンダンジー」と言っていました。ぼんぼり? 盆踊り? ボンダンス? なぜそうなったのかな。たしかに、それを訂正したことがないばかりか、ぼくも日常語のように使っていました。そのうち、言わなくなりました。そんなスタンスなのかと思います。
これを書いて思い出したのが、酒井式への批判だったり、僕がこの記事で書いている「その子の読みのステージ」みたいなことです。
クリックしてG2021-11%E5%86%A8%E7%94%B0.pdfにアクセス
子どもたちの学習を局所的に見るのではなく、俯瞰して見られるようになることが、教育の専門家としてのスタンスなのかもしれません。
第7章 作者クラブ
僕はなぜか、好きな作家とかないなあ。。。 なんとなく好きでも、新作が出たら買うぐらい好きという感じではない。音楽とかは好きで、ミスチルなんかはやっぱりいいなあと思いますが、それと同じ感じで作家もあるといいなあと思います。そういう感覚がないのは、若い時に本という文化がなかったからかなあ。僕の読書は人から勧められた本を読むことがほとんどです。
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確かに、日本の国語の筆者を中心とした学習は、「宮沢賢治」が代表例で、教師の守備範囲を出ないようにしますね。教師と生徒が同じものを「見る」「持つ」 けれど、このオウサークラブは、教師と生徒が同じものを持とうとしていません。大きな違いかと思います。
宮澤賢治よりももっと早く、日本でも書き手を焦点に学ぶべき。6年生じゃ、遅いです。宮澤賢治の伝記と平行読書の形をとるのですが、それでは仰々しすぎて、オーセンティックではありません。
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Our author club units:
- Create reading-writing connections
- Provide a context for real-world tasks and problem-solving opportunities
- Stand on the shoulders of giants and harness the power of “favorites”
- Provide choice of author-something not done in traditional author study units-which creates a sense of agency in our learners
元々、小学生時代の僕のように書き手にあまり関心を寄せないで来てしまった子どもは、どうするのかなあと。でも、好きな本はあるだろうから、改めて書き手に目を向けるというのも、いいかもしれません。そもそも、書き手に目を向けないことこそ、国語がリアルワールドと繋がっていないということでしょからね。教科書の中で終息する国語。
Author Clubs に合う作家リスト(もちろん、子どもが選ぶ)
マット・デ・ラ・ペーニャ(Matt de la Peña)
ジャクリーン・ウッドソン(Jacqueline Woodson)
ジェイン・ヨーレン(Jane Yolen)
カーメン・アグラ・ディーディ(かーめんあぐらでぃーでぃ)
エズラ・ジャック・キーツ(Ezra Jack Keats)
イヴ・バンティング(いぶばんてぃんぐ)
パトリシア・ポラッコ(Patricia Polacco)
ピーター・ブラウン(ぴーたーぶらうん)
スティーブ・ジェンキンス(すてぃーぶじぇんきんす)
シンシア・ライラント(しんしあらいらんと)
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オウサークラブには、自分をメタ認知する機会が作られているのだと思います。今までは、どうしても自分の作品に目を向けられていましたが、作家という人に着目することで、自分に視点が向きます。子どもにとって、自分に視点を向けることは難しいですが、作家を学ぶというフィルターを通して、作家と自分を重ね、自分を変化させようとする学習が生まれるでしょうね。
斜字になっています。前の章にも出てきましたよね。これはある意味で、基本的な学習サイクルなんだと思います。そう考えると、色々と応用できる。
英訳だからかもしれませんが、この本の子ども達は、そして先生も、抽象的な思考が秀でているように感じます。日本の子供は、抽象的な思考や、メタ的な思考が練習できていないのかもしれません。
「自分の書きたい物を書く」作家の時間の流れは、緩やかに流れていて、そこにimplement?attachment?する形で、ユニットがあるのでしょうか? stand aloneタイプのClubsは、一度自分の書きたい物を脇に置いて(一度やめて)書いている? インプリメントタイプのClubsは、自分の今書いている物を利用して、それを向上させるためにあるということですね。日本の単元のイメージだと、単元同士のつながりはほぼないと考えて良いです。でも、この「自分の書きたい物を書く」作家の時間が緩やかに流れていて、それにユニットをくっつけて、自分の書いている物を念頭に置いた上でユニットが作られているイメージが強くなっています。もしそうなら、これは、ほんとうにすごい。膨大な国語の時間が必要でしょうが、僕の中では「作家の時間」にわりとプチ革命が起きます。
第8章 Convention Clubs 表現クラブ 文法クラブ 修辞クラブ
文法の用語が多いのと、英語独特の言い回しが多くて、なかなかコメントできない・・・。
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場は教師が責任を持って作るが、そこでどのように学ぶか、何を学ぶか、どのように自分の作品に活用するかは、学習者に任されている、というスタンスは、この本の中で一貫していますね。こういう、学校の中の小さい一場面一場面が、主体者性を育む要素になっているように思えてなりません。
強み(convention的に)に焦点を当てて、振り返りをしたり、次のグループ分けへのリクエストをつくらせたりしていることについて、よい書き手を育てることがしっかり目的になっているし、強みや自分への分析の視点など、抽象化、メタ認知化された学習を、この小学校段階でもどんどんおこなっているいことに、こちらも主体者性を育む要素を感じています。
Convention
そもそもこの言葉の意味が捉えきれていません。①句読点の打ち方などの文法上の正しさことをいっているのか、それとも、②「文体」のようにその人らしい表現のような意味合いまで含んでいるのか、または、③「書く習慣」のようにテキスト以上のことも含んでいるのか。図8.7を見ると、②なのかな?
convention、私たちの学校では、句読点の正しい付け方がテストに出たり、作文用紙の題名の前に3マスあけることを求められたりします。つまり、正しいconventionが、(テストを成立させるために?)あることが前提です。以前、学力状況調査で、例えば、「ピチピチと雨が落ちる」のように、音を表す場合はカタカナ、「しとしとと雨が降る」のように、様子を表す場合はひらがな、のようなことを問う問題が出題されました。けれど、それをカタカナで書くかひらがなで書くかという感性を育てることの方が、文法上の知識を問うことよりも大切なように思うわけです。
clubする。「歴史をする」という言葉と同じような新鮮な感覚になります。私たちの学校は、どこまでクラブできているかなあと。この遊びっぽいワクワクする感覚を、主体者性をもって運営していく感覚を、「クラブする」という言葉で表せたらおもしろいなあ。
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