努力してできるようになりたいのはやまやまでしょ!『算数文章題が解けない子どもたち』

公認心理師

算数文章題が解けない子どもたち: ことば・思考の力と学力不振 今井むつみ/杉村伸一郎/中石ゆうこ/永田良太/西川一二/渡部倫子 岩波書店

今井むつみさんは、認知科学の研究者です。

『ケーキの切れない非行少年たち』の内容を思い出しますが、こちらと比べて、グッと研究論文寄りに書かれていて、粒度が高い内容となっています。認知心理学の視点から、深く掘り下げていく本です。

「算数文章題テスト」・「生きた知識」

「ことばのたつじん」「かんがえるたつじん」というテストを開発し、「算数文章題テスト」と重ね合わせることで、「生きた知識」とは何かを探っていきます。ざっくりいうと、「ことばのたつじん」は、語彙知識やことばを的確に使う力を見るテスト。「前・後、右・左」や、「2日前・5日後・1週間先」など、相対的な視点を持つ言葉の運用力などもみます。「かんがえるたつじん」は、整数、分数、小数に関するスキーマ、実行機能や作業記憶などの認知能力、推論能力を見るテストです。

「生きた知識」とは、必要な時にすぐに取り出すことができ、問題解決のために運用することができる知識のことです。例えば、3+5=8ということがわかっても、数と数を足すとはどういうことなのか、足し算と引き算はどういう関係なのか、などが分からないと、文章題テストや問題解決場面で活かすことができない。僕が今関心を寄せている「オーセンティシティ」とも関連してきます。


「算数文章題テスト」と「生きた知識」がどれだけリンクするかは、若干疑問がありますが、確かに、ただの数式を解くことよりは、実際の問題解決場面に近い状況を作れます。ただ、言語理解などに依存した状態になることは、否めないですよね。

 

小学生の算数における学習のつまずきはどこにあるのか?

この本の7つの結論です。単一で存在することではなく、重複や複合的な要因になることもありますが、この本が示す帰着点はここになります。以下の説明がよく分からないときは、完全に僕のせいです。詳しくは、実際に本を手に取って確認してください。

1、知識が断片的で、システムの一部になっていない

「たし算」の単元では、たし算だけすればマルをもらえ、「かけ算」の単元では、かけ算だけすれば正解します。これでは、四則演算の知識が相互にどのように関わっているのかの理解が薄くなり、応用が効かないことになります。

テストでは、「かけ算」の単元なら、出ている数字同士をかければマルをもらえますが、実際の生活場面で、何を数として認識し、かけ算をするのかを判断しなければなりません。算数の問題文はテストの紙面の都合上、無駄がないものになっているので、あとは問題文にある2つの数をかけるだけで答えになってしまうのならば、いくら練習を積んでも「生きた知識」を得ることはできないでしょう。

2、誤ったスキーマを持っている

スキーマとは様々な物や出来事、概念について人が持つ暗黙の知識のことです。知識を整理したり引き出したりするための前提となるもので、知識を物と例えると、棚のような存在であると、僕は考えています。

例えば、この本で挙げられている間違ったスキーマの一つに、「数はものを数えるためにある」というものがあります。

僕自身も子どもに分数を教えているときに、1/2と1/3を比較させると、見かけ上の3に引っ張られて、1/3と答えてしまう子どもを見ます。さらに、「割合」では、全体を1とするという考え方が分数よりも前面に出てくるので、1をものの数と考えてしまっていると理解が追いつきません。これは暗黙の知識なので、子どもが言語化することはほとんどない(「数って物を数えるためだけにあるんじゃないんだ!!とは言わない)ため、教師の方もその前提に気づくことが難しいと思われます。

他にも、「足し算と掛け算は増える、引き算と割り算は減る」という間違ったスキーマも出てきます。個人的には、「=の後には答えを書かなければならない」や「テスト用紙は余計な線やメモをしてはいけない」、「答えは、数字と単位だけを書く」など、子どもたちがこれまでの学習経験から得てしまった間違ったスキーマは、算数的な認知だけにとどまらないと思っています。

3、推論が認知処理能力と噛み合っていない

推論が全くできないのではなく、例えば、推論を維持したまま、それが正しいかどうかを確認しているうちに、問題解決とは違う要素に気づき、そちらに流されて推論を保持できないで、注意が逸れてしまいます。

例えば、問題を読んで、「こうやって解くのかなあ」と推測できたとしても、その推測に短期記憶のリソースを投下してしまうために、普段落ち着いていればできる繰り下がりの引き算などで、ミスをしてしまう子です。類推で短期記憶の大部分を使い、脳が無意識に負荷の少ない処理をしようとしてしまう。

短期記憶をサポートするために、補助線や図など、書いて保持しておくというテクニックを、学力上位層の子どもは行っています。つまり、短期記憶の能力以上に、短期記憶を補助する方法を学べているかいないか、それも結果を左右しています。

4、相対的に物事を見ることができない

一直線の直線に0と100を配置し、例えば「18はどこ?」と質問します。この相対的に見た量感覚が身についていない子どもが多いそうです。先ほどの「数字は数を数えるためにある」という誤ったスキーマを持っていると、全体100との相対で考えなければならないにも関わらず、18ミリのところを指し示してしまいます。100までの位置が100ミリを表していないのに、ということです。

地図の問題で、こちらを向いている人の左右は、自分の左右とは逆になります。そのような他者視点の関係なども、やはり難しく、相手の見ている風景をイメージすることに、困難さを持っている子どもがいます。

相手の立場に立って相対的にかんがえることは、軽度発達障害などのフィールドでも語られることが多く、重なりがあるのかもしれません。これは、視点の変換の柔軟性でもあるので、メタ認知とも重なります。自分の思考、自分の間違い、自分のスキーマを他者視点で見直し、修正することは、算数以外の教科でも、とても大切です。

行間を埋められない

子どもが14人、1列に並んでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか?
14ー7=7 としてしまい、文章から具体的なイメージを持てていない子が多く出ます。
1枚の画用紙から、カードが8枚作れます。45枚のカードを作るには、画用紙は何枚いりますか?
これも、45÷8=5あまり5 とできるものの、これをそのまま答えにしてしまいます。
問題場面をイメージしないで、問題文の数字をそのまま使うという間違ったスキーマが働いてしまっている可能性があります。それでもこの子は、たくさんのマルをもらってきたでしょう。しかし、行間を読むことができず、問題場面をイメージできていません。
おそらく、このような子は実際の場面では、7人とか、5枚とか、そうは答えないでしょう。当たり前のように、「6人でしょ!」とか「6枚ください」と言うけれど、実際の文字上の問題では、思考が答えを出したところでストップしてしまいます。
割り算を正しく処理する力を、持っているかいないかは、「文脈による」でしょう。「力」という目に見えない力をどのように定義するか、これは前のブログの投稿でも話題にあがっていました。

暗黙知が8割 『私たちはどう学んでいるのか: 創発から見る認知の変化』より
私たちは、学校文化にどっぷりと使っていて、何も意識することなくそのシステム前提で考えてしまっているので、「力」なり「知識」なり「発達」なりのイメージを限定的に捉えてしまっている節があります。そのことを、この本が教えてくれています。「作家の時...

 

メタ認知が働かず、答えのモニタリングができない

花ちゃんは、タマというネコを飼っています。でも、タマは、2日間ずっと元気がなくて、花ちゃんと遊んでくれません。元気がないのは、だれのネコですか?
こう問うと、「タマ」と答えてしまう子が少なからずいるそうです。
学校現場にいると、この感覚はよくわかる気がします。ADHD傾向のある児童は、反応と反応の間に、時間的な間隔を持つことがなく、直感的に答えてしまいます。そこに、メタ認知を入れる隙間はありません。
おっちょこちょい間違いというと、それ以上分析する機会が失われますが、実は、その子の認知の特性を如実に表しています。

「問題を読んで解くこと」に対する認識

何のために算数を学んでいるのか理解できず、学習性無力感の状態になってしまっている子が、やはり一定の割合でいるそうです。回答しない、無回答の状態のままでいてしまいます。

これが一番、根が深いように思います。学校教育の弊害を最も被ってしまった子どもとも言えるのではないでしょうか。

がんばりが足りないから、と、間違ったスキーマの上に知識を山積みにされて、重さで潰されてしまった状態でしょう。こうならないために、先生は、間違ったスキーマの典型を理解し、目の前の子どもをアセスメントして、何が課題になっているのかを考える必要があります。努力してできるようになりたいのは山々なのに、それでも努力が足りないと言われ、学習性無力感の状態になってしまっています。

せっかく公認心理師を持っているのだから、こういう子どもをしっかり救ってあげたいという思いです。

 

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