特別支援学級は、クラスではなく、通うところなのではないでしょうか?
それは、看護的なケアが必要なときは、保健室へ、日本語教育のケアが必要な場合は、国際教室へ、自分の教室から、その場所へ通うということです。もちろん、一人ひとりの状況に応じた支援を受ける場所として、通級という場所もありますが、こちらは、週に1・2時間が限度ではないでしょうか? 現在、特別な支援を必要としている児童は増えています。それならば、通級のようなスタンスで、さまざまな支援の量や支援のバリエーションを提供できるように、学校のシステムを変えたら良いと思っています。
特別支援学級がクラスであることによる問題
特別支援学級がクラスになっていることによって、全てが良くないと言っているわけではありませんが、弊害もあるように思います。
それは、社会としては目指すべきではない「インテグレーション」の形が、学校という日常の中のデフォルトになってしまうということです。特別な支援を受けるということは、誰もが状況によってあり得る環境であり、普通のことです。怪我もありますし、特に苦手なことに直面するかもしれません。全員が受ける権利を持っているものです。
けれども、校内にあるとはいえ、特別支援学級という形で、恣意的に「インテグレーション」または「校内のセグリゲーション」という形をとる特別支援学級は、特別な支援が必要な子どもを社会的にもそのような扱いにするということで、自覚のないまま子どもの意識の中に浸透してしまいます。つまり、問い直すこともなく、デフォルトになるのです。
このような扱いは、意識上に上がらず、世の中の一部として組み込まれてしまいます。年齢ごとに輪切りになっている学校の学年構成に何の違和感も感じないように、特別支援学級と一般学級とに別れていることに、何の違和感も持たなくなってしまいます。幼少期に過ごした生活環境を問い直すことは、なかなか難しいことではないでしょうか。そうやって、不当な扱いは、見えづらくなっていきます。
昔、そして今も、セグリゲーションを受ける人たちは、それが不当であることを認識することなく、ある意味で「親切」であるかのように受け取ることもありました。アメリカでの白人黒人の問題もそうでしたし、日本での出自や男女の問題もそうでした。不当な扱いを受ける人たちが、それに気づかないどころか、分けられることで親切を受けているかのような錯覚を得てしまいます。本当はそれは間違っているのに。
学校の中のインテグレーション
目指す理想は「インテグレーション」であることは、子どもの権利条約で示されています。もちろん、そこに到達するためには、学校や支援者の高い志が必要ですし、多くのコミュニケーション、それに関わる複雑で煩雑で手間のかかるやり取りを経なければ到達できません。
真の意味で「インテグレーション」は、そもそも一つのグループに集まる子どもが年齢や特別支援の必要性などで括られておらず、学習自体が子どもたちのさまざまな多様性に対応できている構造になっていて、自分自身で自分の特性や認知に合った支援を支援者や学習環境から選択できる、そんな姿をしているでしょう。
そうであれば、特別支援が必要な子どもが同じ教室で学習ができるように、学習の構造自体を変えたり、支援者(副担任のような存在)が教室の方にやってきて、適宜支援を行うことも考えられます。
しかし、時間をしっかりかけて行う支援であったり、設備などが必要な支援であったりしたときに、ある場所に通わなければならないことがあります。そこで役に立つのが、「特別支援室」(ネーミングは違う方がいいかもしれません) 特別支援室には、在籍するのではなく、必要なときに通うことになります。子どもにとっても、普段過ごしている教室で受けられるのであれば、在籍している学級で学習できた方が良いはずですが、取り出して行わなければならない支援などもあるでしょうから、この教室で行います。
保健室だってそう、日本語教室だってそう、特別支援学級もそうで良いはずだと考えています。
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