今日は某学校で石川晋さんの「作家の時間」を参観に行きました。僕と石川さんの付き合いは意外と古く、竹芝のライティング・ワークショップの研修でお会いしたのが最初だと思います。その後、1年に1度くらいは直接お会いしているぐらいのペースかもしれません。澤田さんも一緒に参観しました。澤田さんとは、少し上のお兄さんという感じで、登山が共通の趣味です。数ヶ月に1度くらいは、話をしています。
古参の実践家(僕もか)の3人+2人が揃って、おもしろい話がたくさんできました。
子どもの文脈を大切にする教師 教師自身の文脈をそれでも大切にする教師
子どもに寄り添って、「今は句読点や鉤括弧の指導はしない」とか、「書けるまで待つ」とか言うのは、言うだけなら簡単で、実はとても難しいことです。僕も安易に「寄り添う」とか簡単に口にしてしまって、そんなに体のいい言葉ではないと、反省です。「子どもが願っていることをしっかり捉えて、後押ししていく」「子どもが目指している方向へ歩んでいくことを大切にしている」こうやって考える僕も、割とどちらかといえば寄り添う派の教師側に入ると思います。
一方で、教えることで、教師が目指している子どもの姿へと引き上げ、自分だけでは見られなかった言葉の世界へと導いてやることも、とても難しいことです。子どものやりたいことに迎合することはある意味で楽な道であり、私達が「確実にこれは伝えるべきこと」と責任を持って教え、目指すべき子どもの姿とされる作文に導いていく。こちらのスタンスも、とても技術が必要で、責任ある仕事です。僕もこちら側の教師スタンスをとる時は、少なくありません。
一方は下から支え上げるように、子どもの意思に寄り添いながら関わり、一方は上から引き上げるように、力強く子どもを導いていく。
僕は、どちらが正しいかなんて言うつもりはないですが、この2つに挟まれながら悩んだり、考えたりする教師が、もっとも信頼できるのではないかと思っています。迷っていない人は、卓越しているのか、それとも若いのか、分かりません。
ヴァルネラビリティー【vulnerability】(脆弱性)という言葉がありますが、僕はこの言葉のポジティブな面を大切にしていて、鎧を脱いで悩み迷っていることを、しっかり見せていくことが、教師同士の関係を作る上でも、子どもとの関係を作る上でも、大切なような気がしています。
ノートと鉛筆で書く、タブレットとキーボードで書く
2つのクラスを参観させていただきました。明確な違いは、一方は作家ノートと鉛筆で書いているクラスと、タブレットを脇に置いて調べながら書いているクラスの学び方です。
2つのクラスとも、特に明確な指示を出しているわけではないですが、明確に学び方が違います。
タブレットを使うクラス
- 実際のキャラクターを登場させて書いている子が多い
- キャラクターに説明することよりも、展開に意識が向かっている
- 調べることに時間を使う子が多い
- 一緒に書いている子は同じコンテンツのキャラクターを使ってつながっている
タブレットを使っていないクラス
- 素朴なキャラクターを登場させる(家族、飼っている動物、クラゲ)
- キャラクターの説明に意識が向く、誰にでもわかりやすいキャラクターを使う
- 基本的に調べない
- 一緒に書いている子も割とバラバラ
タブレットを使っているクラスも、鉛筆とノートで下書きをしていましたので、完全にペーパーレスではありませんでした。やはり、その辺りは石川さんのこだわりで、アナログの手触りを残しつつ、子どもの様子に応じて場合によってはデジタルを入れても良い、というスタンスでした。
作文が書けなかった小学生時代の自分
僕自身も小学校の時は、鉛筆と原稿用紙で書く作文が大の苦手で、文を書く方法はそれしかないと思っていました。しかし、キーボードと出会った大学生時代に、自分史に革命が起きたのを覚えています。なんせ、どんどん書ける。余計なことを気にしなくていい。「漢字の間違い」「字の汚さ」「句読点の有無」「原稿用紙3枚まであと何文字か」気になって仕方がなかった。ワーキングメモリが少なかった小学生の自分には、作文は困難な作業でした。綺麗で正しい文章ばかりがお手本だったので、一発でそんな文書など書けるわけもなく、お手本と自分の作品とのギャップが気になって、書くことが楽しくなかったのを覚えています。
大学生になって、キーボードをある程度のスピードで打てるようになり、僕の中で多くの思考実験が行われました。「こんなふうに書いてみたらどうなるのか?」「どんな反応があるのか?」「自分の中でどんな変化があるのか?」大学生当時、僕はバスケットボールサークルの運営をやっていて、メールで活動日の日程をお知らせすることを行っていました。その報告の余白に、自分の「徒然草」を書いて送っていたのです。むしろ、余白はどんどん大きくなっていきました。もう覚えていないけど、「宇宙」とか「感覚」とか、結構哲学的なことを書いていました。今思うと、どうしてそんな恥ずかしいことができたのか分かりませんが、あれは僕にとって書くことが楽しいと感じられた初めての体験でした。
思考のスピードとキーボードのスピードの波長が合う、漢字や運筆など思考を途切れさせるものが少ない、加除修正が楽、こんな理由で、僕にとっては、キーボードで書くことの方が、今も圧倒的に日常の中に入り込んでいます。
小学生の僕に言ってあげたいのは、
- 「良い作品を書かなくていい」
- 「長く書く必要もない」
- 「正しく書く必要もない」
- 「しっかり悩めているからいい」
- 「新しい何かを生み出そうとしているからいい」
- 「わかりやすく書けたらもっといい」
と伝えてあげたいと思います。それなら、小学生の僕でも作文は楽しくできたのか? 多分無理だったかな。やっぱり、キーボードと出会えてよかったと、振り返っても思ってしまいます。当時の先生の評価も、僕自身の評価も、上に上げたものとは正反対のものだったと思います。
手書きは密度が濃くなる キーボードは伸び伸びと書ける
石川さんは、その子にしっかりと反応を返してあげたいので、子どもにも手で書いてほしいと言います。確かに、キーボードで書くと、熟考して書くよりもあまり悩まないでスラスラと書くようになるかもしれません。文量も多くなり、一つの作品に教師が反応を返すのも、時間も多くかかってしまいます。誠実にフィードバックを送るためには、子ども全体の活動を自分の見られる範囲に収めることも、大切な視点だと思います。
子どものすべての学習活動を教師の掌の範囲・範疇におさめてしまっては、どこかで子どもたちの伸びようとする力を頭打ちにしている印象もあります。成長よりも評価しやすさ、教師の不安や立場の維持、などが、氷山の水面下にあることもあります。ただ、自分のできることに真摯であること、子どもたちの活動に責任を持つこと、こういう誠実である姿勢の表れでもあります。
一方で、量が伴って質が向上すると考えると、ある程度子どもたちに量の感覚を持たせられないと、次に進むことができないという可能性もあります。キーボードを使い、量というわかりやすい基準から「ああ、僕は書けるんだ!」と自信をつけることにより、「もっと届く文章を書きたい」という視点が入る学びを方をする子どももいるだろうなあ。大学生の頃の僕のように。
ただ、自分の経験でしか考えられないから、「量→質」と考えるのであって、もし、小学生の頃から、上の箇条書きのようなカンファランスのシャワーを浴びていれば、思考のプロセスを大事にした自分の価値を見出せる、質重視の子どもになれていたかもしれません。
小父さんの価値観
3人の中でのキーワードは「小父さん」でした。石川さんの立ち振る舞いが、小父さん。学校現場には、すっかりおじさんがいなくなってしまいました。元々女性比率が半分よりも多い職場であり、若い先生だけで学年を構成することも多くなっています。おじさんと言われる人は、管理職になるか、影を潜めるようにしているか。
楽しそうに授業をしているおじさんの先生は貴重です。
学校が理想とする未来の社会の縮図であるのならば、そこで小父さんという存在がどのように立ち振る舞っているか、子どもたちは周辺視野から見て、しっかり脳に刻み込んでいると思います。石川晋さんのようなユニークで朗らかで、舞うように子どもの前に立つおじさん先生の担う役割は大きいだろうなあ。
さて、僕も最近、小父さんという言葉が似合う先輩方々とお付き合いがあり、その方々全てに言えることは、やっぱりアナログを大切にしているということです。鉛筆とノートを使う作家の時間とか、オンラインセミナーはしないとか、スマホ持たないとか、PASMO使わないとか。質感とか非言語であるとか、体験とか、感情とか、そういう言葉以外のものやリアルであること、「0」「1」では表現できないものを大切にする感じ。僕も自分はそこまでできないけれど、なんとなく分かるようになってきています。
アラフォーの僕もやっとうっすら感じられてきた段階なのに、小学生の子どもが、そういう小父さん的な今の子どもたちには捉えるのが難しい価値観を、「手書きはいいから」「質感が大切」「その子のありのままが見える」とか能弁垂れて、不可避な状態で上から流し込んでいくような学習は、気をつけなければならないなあと。僕自身は、割とこういう思考で今まで多くの失敗をしてきました。
二次創作で子どもは見えるか
僕は、手書きの、その子の見える感じが好き。その子の凝縮した感じが好きです。何度もいろいろなところで書いていますが、僕は子どもの力を伸ばすことは副次的な結果であって、そもそも、子どもの存在を認めるためにワークショップという学び方を行っていると言っても過言ではありません。澤田さんと行った「二次創作論争」も、僕の考えは結果として「その子が見えるか、見えないか」に帰着します。
僕は基本的に二次創作を認めていません。ポケモンとか、ディズニーとか、子どもたちは大好きですが、その既存のキャラクターを登場人物にしてしまうと、その子の純粋な思考よりも、既存のキャラクターの性格や制作者の意図がノイズとして入ってしまい、その子らしさが見えなくなってしまうと考えるからです。
澤田さんは、二次創作もジャンルとして確立した文化だと言います。まあそうだよね。昨日見た「竜とそばかすの姫」も、美女と野獣のオマージュだし、一次創作と二次創作の境界線なんてないのかもしれません。そもそも、子どもをしっかり見る力があれば、二次創作の中からその子らしさを捉えることも十分可能です。二次創作を禁止にすることによって、大人が見たい子どもの姿ばかりを浮立たせているに過ぎないとも言えます。子どもの活動を制限することによって、教師が見たい子どもの姿ばかりがスクリーンに映り、余計なところはトリミングする。澤田さんの言っていることも、もっともだなあ。
これまでの話をまとめてみる
結局は、抽象化すれば、子どもの文脈と教師の文脈の二項対立になりがちで、子どもの数や教師の数が多くなればなるほど、子どもと教師の文脈同士の化学変化が起きない学習環境になり、「0」か「1」かの思考になってしまいます。
究極は、子ども・教師のレベルではなく、「個人」のレイヤーから始めて、分散された個の繋がりで考えていくべきなのか?
着地できませんでした。
コメント