計画と無計画の間
1回目の研究授業が終わった。
だらだらとした指導案も書いたが、指導案は少なくていい。可能性が計画で押し狭められてしまう。
それよりも、やっぱり授業というのは、計画と無計画の間に価値があるように思う。
発表してと言ったのに
こんな場面があった。
視点ごとに分かれた実践プロジェクトに成果をホワイトボードに書いてまとめて欲しいと投げかけた。
子ども達は、4月から使い慣れているホワイトボードを駆使して、話し合いをキーワードにして可視化していく。
そして、自分の視点のプロジェクトごとに発表してほしいと促すと、僕の予測していなかったことが起こった。
あるグループは、自分の視点ではないことを話し始めている。自分たちの視点よりも、こっちの視点の方が大切だと思ったから、だと言う。私は、自分の視点で発表してと言ったのに。
あるグループは、その場に出てきていない全く違う視点から発表を行った。その視点は、前時では、反応が悪くてお蔵入りした視点じゃないか。でも、彼らは言う。実践したら大切じゃないかと思ったと。
あるグループは、ホワイトボードを勝手に2枚使って、メリットとデメリットに分けて提示。お陰で黒板が狭くなったが、わかりやすい発表になっていた。私は、1枚にまとめてと言ったのに。
反応と応答の差
でも、子どもたちが自分の判断で動いていると言うことが、嬉しかった。
それは先生の指示への反応ではなく、先生や友達への応答だった。
指示に従うのは、ただの反応。言われたことを受けて、正しく動く。それも悪くないけれど、学び方として、生き方として、どうなのだろう。そうではなくて、応じて答えていく感じ。自分なりの解釈を示していく感じ。
社会科ワークショップが育ててきた子どもたちの姿なのか、希望的観測ではなるけれど、自分で考えて動く学習を楽しめている子どもたちの、1つの学び方が見えたような気がする。
自由を楽しむ子どもたち 指示や発問は具体的な方が本当にいいのか
1人の子どもが素朴な問いを出すと、それに、違った角度の自分なりの答えが、3つ4つとつながる。勝手に応答が始まる。1つの意見でも、自分は違うと違った角度からの意見がぶつかる。爆ぜて思考が広がる。子どもたちが自由を楽しんでいる。
活動目標は具体的な方がいい、指示や発問は具体的な方がいいと、よく言われるが、本当にそうなのか、必ずしもそうとは言えないのではないかと考える。
指示が具体的であればあるほど、子どもは応答できない。反応しかできなくなる。先生との反応のやりとりしかできなくなる。先生との、子ども同士の、応答が具体的な指示によって、隙間がなくなる。計画と無計画の余地がなくなってしまうような気がする。
無計画ではない方向性だが、こちらの計画とは違う応答が生まれ得る余地を意図的に残したまま、それを子どもたちに投げていく。子どもに自由と責任を譲り渡していくことに、未来を感じられる時間だった。
計画と無計画のあいだ: 「自由が丘のほがらかな出版社」の話 (河出文庫)
いま、地方で生きるということ
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