アトウェル先生のカリキュラム インザミドルブッククラブから

ライティング・ワークショップ
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インザミドルブッククラブをやりました。

その模様はあすこまさんやはまてんさんのブログに委ねることとして、僕はやっぱり、一点突破型の自分の意見を形にしてみるという挑戦をしてみました。

『イン・ザ・ミドル』ブッククラブでの学び@横浜 - 虎哲の探究
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『イン・ザ・ミドル』読書会@大人のブッククラブに参加してきました。 | あすこまっ!

教師の道具、カリキュラム

教師が本当にプロであるならば、伝統工芸の職人や和食の匠と言われる人たちのように、自分のカンナは自分で磨き、自分の出刃包丁は自分で磨くだろう。葉加瀬太郎もバイオリンだけは絶対に預けずに自分で管理するらしい。

では、教師にとって、自分の道具となるものは何なのだろうか。それがなくなっては困るもの。いつも肌身離さず持って置かなければならないもの。自分の道具として磨き続けるものは何なのだろうか。

僕はこれこそ、カリキュラムなんだと思う。

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磨き続ける私のカリキュラム

アトウェル先生は、教科書が詩から始まっているから詩のユニットを作っているわけではないのは当然のこと。もちろん、学校のカリキュラムで詩からやろうとなっているからやっている感じでもない。むしろ、「私は詩を通じてワークショップの学び方を学ぶことがもっともいいから、そこからはじめるのよ!!当たり前でしょ!あなたはどう思っているの?」と、叱られそうである。

アトウェル先生は、自分のカリキュラムを足しては削り、足しては削って、カリキュラムを自分の体のように大切にしながら、カリキュラムこそ自分の最も大切な道具として、磨き続けてきたのであろう。自分のカリキュラムに対して、圧倒的に責任をもっている。「私のカリキュラム」なのだろう。

アトウェル先生は毎年同じ学年をもっているのだからできることだろうと高をくくってはいけない。きっと彼女はどの学年を受け持つことになったとしても、自分のカリキュラムをベースに子どもの様子をみて判断していくはずである。

アトウェル先生と同じお給料をもらいながら働く自分は、はたして、道具をもてているのだろうか? 苦しいです。

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一人の子どもに合わせてカリキュラムを変える

カリキュラムは全体に近づけば抽象的なものになり、個に近づくごとに具体化されるものだ。学年全体のカリキュラムは、本当に大枠だけ提示されてるイメージで、そのおかげで、子どもが詩、エッセイ、論説文程度の枠組みをつくり、緩やかに学び会える環境ができればそれでいいと思う。目指す子どもの方向性がある程度さだまっていればそれでいい。

そもそも、カリキュラムを、ガードレールや教師の舫い綱(もやいづな)の機能として使っていると考えてしまっている自分がよくない。学校として足並みをそろえるべきなのは、育てたい子ども像やコンピテンシーの方で、そこに到達する方法は、子どもによって何通りもあったっていい。もしも、学習問題や資料まで詳細に記載されているカリキュラムがあるとするならば、それは子ども一人ひとりに属しているものであるはずである。

つまり、カリキュラムに子どもを引き寄せるのではなく、一人の子どもの方にカリキュラムを寄せていくのであろう。中心は子どもであって、一人ひとりに合わせていかなければならないのは、カリキュラムの方である。カリキュラムは個に応じて使うことが前提ということで、永久不変なものであるわけがない。カリキュラムとはそういう存在なはずである。

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民主主義的な学習とは

違和感を感じるのは、教師自身が作ったものではない自治体や学校のカリキュラムが絶対のものであると誤解して、どんな子どもも固定的なカリキュラムに乗せていくことが上手な授業であるかのように言われている感覚である。1000の子どもがいれば、1000のカリキュラムがあるという基本的な感覚を大切にしたい。

まさに学校生活の中の民主主義。Student-based Learningの感覚である。学習とは、一人ひとりに固有のもの。

今読んでいる民主主義とつながってしまったわけです。

コメント

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