英語の本『Writing Clubs』でブッククラブ
最近、また新しく海外の教育書のブッククラブを始めました。作家の時間の本です。
まったく一般向けしない、玄人向けエントリーなので、興味のある方だけどうぞ。
今までも英語の本を読みながら、ブッククラブを行っています。
僕は、大して英語もできないですし、留学もしたことないし、Google翻訳などを活用しないと読み進められませんが、なぜかいろいろなご縁でこのような状況になっています。さすがに3冊目なので、1冊目と比べると慣れてきた感があります。教室の風景の本は、英語がよく分からなくても、なぜか読めるんですよね。おそらく、状況が想像しやすいからだと思います。日本語でも書いてある内容がよく分からないってことがありますよね。だから、英語で分からなくても気にしないで読みます。想像より敷居は高くないです。
日本の教育は(良い意味でも悪い意味でも)ガラパゴス化していますので、俯瞰してみるためには海外の実践はとても参考になります。みなさんもぜひ挑戦してほしいなあ。
学校教育を研究している方には、本当にがんばってほしいです。基本的に、研究者と言われている人の中で、海外の教育実践についてその言語で書かれている本にアクセスしない人は、仕事をサボっていると思われても仕方がないと思います。ちょっとディスり気味ですが、期待を込めて。諸外国の学校教育の事例を通して、日本の教育の良さや改善点が明らかになってくると、いいと思います。
Foreward
まず、Writing Clubとは何か、という疑問を持ちながら読むわけですが、今の所の印象だと、「普段の作家の時間の共有の時間をいい加減にしないで、ピア・フィードバックの質を高め、ラーニング・コミュニティを育てていきましょう」(トミーの感想)という感じです。
→ Intradependenceを表す言葉がよく見つかりませんが、個人個人が自立していて、お互いが緩やかに結びつきあっている様子をイメージしています。理想的な作家の時間に現れる子供の姿ですね。
→この部分には、著者の子どもを全人的に育てるという強い思いを感じました。「書き手読み手を育てることを通して」という意識さえ現場は持てていないので、全人的に育てる感覚には程遠いと思います。 まあ、そもそも一斉授業とパンデミック下のソーシャルディスタンスは、子ども達の心の距離という点では、それほど状況が変わりませんね。でも、「協働的な学び」を推奨していた中で、突然、グループ学習もできない状況だった(現在はそれほど言われませんが、先生達の心の底には根強く残っていて、やってもいいのかなという思いの方は多くいると思います)訳で、「ICT機器との対話」から脱するためには、しばらくかかるように思います。
Chapter 1 An Introduction to Writing Clubs
コンプリメント型(各ユニットに内蔵されている)とスタンドアロン型(ユニットとして独立している)のライティング・クラブがあるようです。
コンプリメント型は、共有の時間を丁寧に行っている様子が第2章で描かれています。フィードバックの型をモデルで示すなど、仲間同士の交流が行われていればいいという次元から脱しています。
スタンドアロン型は、まだいまいちよくわかっていませんが、ラーニング・コミュニティを形成することを主眼としたユニットのようです。しかも、作家の時間の初期に行うようで、書く力を伸ばす前に、まずはベースとしてコミュニティを作るという印象です。
僕の場合は、初期には「自立的に学ぶスタンス」を育てることに注力していただけに、筆者のまずはコミュニティからという考え方の違いには、驚きです。
作家の時間の初期は、みんなかなり意欲的に書くことができるので、ペアワークなどは、僕の場合は最初の中弛みが出る6月くらいの印象ですが、筆者は、学期当初からペアワーク、さらには、コミュニティ形成にダイレクトに働きかけるようなユニットを作っているようで、なるほどと思いました。
最初から、個人の力に頼らず、ブーストかけている感じ。書くという営みは、協働作業を前提としている、というベースが違います。
→how to impact the worldのように、どのようにアウトプットして何かを変えようとするかもライティングクラブとして共有するスタンスがおもしろいですね。ブッククラブ単体では、本自体を楽しむことに主眼が置かれていますが(ブック・プロジェクトだと、もっと行動の範囲が大きいように思います)、ライティングクラブは、より探究的な活動であると解釈しています。
→作家の時間は、共有の時間はあるものの、仲間と協力という学習よりかは、個人として「がんばる」学習になりがちです。(それが魅力でもあります。)1年間続けると、やはり平板な活動になってしまうので、こういうライティング・クラブのようなエッセンスがあっていいように思います。けれど、作家の時間の常時活動が安定して行われていることが前提のようにも思いますが。
→私たちの学校は、「目標」の存在感が強すぎます。いや、それならまだいい方で、「教科書通りにやろう」となるので、教科書会社が作った目標になり、誰もその目標に対してagencyが持てなくなっています。だから、矢継ぎ早に単元が切り替わっていく。
→ スタンドアロンとコンプリメントの違いは、ライティング・クラブが独立してユニット化されていることと、各ユニットにライティング・クラブが組み込まれて位置づいていること、と理解しています。
- Collaborations can occur in person, in synchronous online settings, and even in asynchronous online settings.
- When in-person collaborations are a challenge, collaborating via a tech platform can be engaging, exciting, and safe!
- Students need opportunities to collaborate and be together in the same “space” more than ever, and it is our role to figure out nontraditional ways to make this happen.
→ICTを活用することで、collaborationがより図られるというのはもっともですが、直接的なやりとりがベースにあって、その上にICTを道具として活用できていることが前提のように思います。作家の時間は、人と人との認め合いの中で価値が高まっていくので、そういう雰囲気が作られていないと、ICTはより孤立を生みます。
Chapter 2 Launching Writing Clubs: Building Community and Establishing Collaborations
第2章では、具体的な教師のミニ・レッスンや、子どものナラティブに焦点化する支援などが登場しておもしろい章です。
この本で言うライティング・クラブは、ブッククラブとは性質的にはちょっと違う印象です。僕が示すブッククラブと対をなすのは、ブック・プロジェクトの方に近くて、ライティング・クラブとは、ラーニング・コミュニティを大切にする作家の時間を総称するような言葉なのだと思います。
→本当はこれ、教師の方が勉強した方がいいですね。スポット的ですが、作文にどうフィードバックを送ったらいいか、教わったり本を読んだりしたことがないです。恥ずかしながら感覚で仕事をしてしまっています。
→今の学校の作文教育に、子どもは怯えて切っています。一生懸命自分を削り出して創り上げた作文という自分自身を、赤ペンというナイフで切り刻まれる体験をしてきたから? 図工の作品を作ることが、作文と比べると、そんなに怯えていないのは、教師の介入度合いが少ないからでしょうか。どちらにしても、自分が勇気を振り絞って出した作品(自分自身)を、傷つけられる経験をさせてはいけなくて、認められる経験か、それとも、もっと自分が目指していた方向性へと進めてくれる経験を、学校では受けられなくてはいけないかと思います。
→僕がワークショップに魅せられているのはこれが理由です。一人ひとりの人間性や物語が、作品を通じて伝わってくるからです。画一的な作品では、分かりません。学習を知ることは、その子どもを知ることに直結するからです。
→ああ、これはめっちゃいいね。
ハートマップという手法も紹介されています。
When creating a heart map, students are asked to consider what they love or what lives inside their heart and “map” it. The results are a beautiful and colorful representation of what really matters to each child.
これは、日本の学校でもすぐにできるね。
— トミー (@tommy32wider) February 10, 2023
→作家の方から読者に尋ねるのですね。読者が感想を言うことだけに使っていました。目から鱗。
→ 言うはやすく、行うは難し 素晴らしいです。 セルフ・アドボカシーまで行き着くまでのプロセスの解像度をあげたいです。どういうプロセスを通過して、セルフ・アドボカシーを発動できる人へと成長できるのか、はっきりさせたいです。
→ ここはとても好きです。こういうチャンスがあることで、まずは短時間でもいろいろな人と話す機会があることは大きいと思います。
→これは書く力をつけることを主眼に置くよりかは、完全に書き手を育てたり、ラーニング・コミュニティを作ったりする方を主眼に置いていますね。こういう「見えにくいもの」のために学習を組み立てることを、日本の教育は苦手としているように思います。「知識」、最近では一歩進んで「力」となっていますが、「知識」だろうが「力」だろうが、見えやすいようにして客観的に評価することを下に学習が組み立てられています。けれどこれは、子ども個人ではなく、子ども個人を育てるためのコミュニティ形成のために学習の場を使っていると言うことで、それがちゃんと還元されて子ども個人を育てることに繋がっていく。こう言うことができる先生がたくさん増えて欲しいです。
→ 学習=力を伸ばす・知識をつける→評価する という学習の成果は個に還元するという感覚が大きいですね(結果そうなるのですが・・・)「ラーニング・コミュニティとして成長」のために学習するというのは、日本の教師の感覚としてあまりない。「客観的に評価できる学習活動でない」と、学習ではないという暗黙の了解があるように思います。
→教師の個への関心が高いことが伺えます。日本の教師は、特にベテランになると、個への関心が低くなるように思います。その分、集団の力を使おうとするのですが。個への関心が低く、組織としてマネジメントできないと、そこから、学級崩壊が起こります。ベテランの先生も、このように学習を通じて、個への興味関心を高く持ち続けることが、学級運営の要だと思います。学習を通じて行わないと、多くのプライベートの時間を費やさなくてはならなくなります。
→やっぱりeditでも、本質的には違うのね。
→ 説明的文章の場合は、筆者の視点に立ってと言うことがありますが、日本の場合、物語の場合はあまりないかもしれませんね。それを「読むこと」の領域で行うのではなく、「書くこと」の領域で行うと言うことに、僕は素晴らしいと感じます。読むも書くも、表裏一体で思考していることは同じと言うことの表れです。
→トリガーというか、思考言語というか、こういうところから子どもを育てていこうとする手立てのバリエーションがすばらしい。ピア・フィードバックの力を知っているから打てる手立てです。
→先生の作品なら、まずは誰も傷つかない。先生のアドバイスを受け取る受容的な態度もモデルとして示していますね。
→こういうプロトコルがいい意味で働く時とその反対に働いてしまう時があるから注意しなくちゃいけないです。
→ラーニング・コミュニティの考え方、日本では学級経営というと、教師のもと組織としてうまくいくといった、目的が前面に出てこないようにも思えますが、書くために、書き手として、人として、学習する組織をつくっていくという意識を、持ち続けたいところです。1年間、子どものいい所も悪いところも見続けていると、何か次の局面しか見えない短絡的な思考になってしまうのかなあ。プロとしては、長期的な展望を持たなければなりません。
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