特別支援学級の担任になってから、数年が経ち、だんだんと板についてきたので、「作家の時間」を始めています。始めて見ると気づくのですが、「作家の時間」と「特別支援学級」は、とても相性がいいです。「作家の時間」が、多様なニーズを持つ子どもであっても、自立的に学ぶ学習環境を提供してくれることを実感しています。
興味関心に応じて、書くものを選ぶことができる
特別支援学級には、限定された興味関心の範囲で生活している子が多くいます。例えば、「電車」や「カレンダー」など、時間があれば、自分の興味関心のあることに夢中になって、我を忘れて没入してしまいます。だから、自分の興味のあることについては、本当に深い知識や溢れる熱意を持っていますが、逆に、それにしか興味を示すことができないなど、教師が与えたテーマに取り組むことができず、学校生活に生きづらさを持っていることが多いです。
そのような子どもに、いくらカリキュラムのテーマに「自然」とか「戦争」とか、高尚な内容が並んでいたとしても、なかなか取り組むことができないでしょう。もちろん、教科書の内容に興味を持つことは、ほとんどありません。教科書の内容を教えることは、お互いにとって疲弊するだけです。
「作家の時間」では、自分でテーマを選択することができるので、その子が今興味を持っているテーマを自分自身で選択することができます。自分の大好きなことを選択できるので、安心して取り組めます。特別支援学級の子どもたちは、不安を感じやすい子が多いので、自分が安心できるテーマを自分で選択できることは、自信につながっていきます。
そんな限定された興味関心の世界にいる子どもでも、1年間一緒にいると、興味関心が少しずつ移っていくことがよく分かります。ゲームにハマっている子も、そのゲームのジャンルや好きなキャラクターが少しずつ変遷していきます。その「自分の好き」を確認するかのように、子どもたちは自分の作品に想いを書きつけていきます。
シンプルな1時間の構成
1時間の学習の仕方が、いつも一定であることは、子どもたちに安心感を与えます。先生が最初に身につけてほしいことや学び方について話し、その後子どもたちは本作りができて、最後に友達が発表するという流れを、子どもたちは教師の説明がなくても分かっているので、見通しを持って学習に臨むことができます。
見通しが持てると、子どもたちは、自分で学習を計画し始めます。「家に持って帰ってやりたい」とか、「書きかけの原稿用紙を空いている時間にやりたい」とか、自分自身で学習をコントロールし始めます。自分自身の学び方に引き寄せて、学習を自分自身に適応させている証です。
その逆は、子どもたちは大変です。自分自身を学習に適応させてなくて良いのです。
その子の認知や気持ち、その日の交流に合わせることができる
さまざまな認知の特性がある子どもたちがいます。そもそも、子どもたちは定型発達している子など、ほとんどいなく、得意なことや苦手なことをそれぞれありながら、凸凹で成長していきます。そうは言っても、特別支援学級では、その傾向は特に高いかもしれません。
そして、子どもたちは、その日の気分や状況にとても影響を受けます。例えば、朝からすごくご機嫌斜めの子もいます。おそらく、朝予想外のことが起こって、教室に登校してくるまでに立て直すことが難しかったからです。復調するのに時間がかかった場合、別室でクールダウンしていることでしょう。授業があっても、刺激の少ないところで、好きなことをして気を紛らわしているかもしれません。
また、交流授業で特別支援学級の学習に参加せず、交流学級で学習をすることもあります。そちらも、大切な学習なので、穴を開けたくありません。
上のように複雑な要素が混合し、作家の時間を行なってみないと、誰が参加できるのか予測できないことが多くあります。それでも、作家の時間は、単線型の一斉授業を前提としていないので、いつ作家の時間に参加しても、そして参加できなくても、いつでも子どもたちは自分の学習を再開させることができる構造となっています。作家の時間のサイクルが、子どもたちの不規則が動きにも対応できるようになっているからです。
書字に困難のある子も、作品を作ることができる
書ける子ももちろんいますが、語彙が少なく文章を組み立てることが苦手な子もいます。また、鉛筆を握って目的の地点まで運筆することが難しい子もいます。いろいろな状況の子どもたちがいても、全員が作家の時間を楽しみにしていることが、この学習の素晴らしいところです。
例えば、物語を作る場合、自分の好きなことであれば、不足しがちな語彙はデメリットにならず、むしろ、ユニークな表現につながることもあります。口頭での発表を前提としているので、その場で言葉を補うこともできますし、絵を手がかりに聞く人が理解することも可能です。語彙の少なくても、代替手段や環境からの支援が多く取れます。
また、全く書字が難しい子でも、参加可能です。スクリブル(鉛筆などを気の向くままに勢いよく走らせる。絵は何十もの◯になることが多い)からカンファランスを通じて見立て、「ネコを描きました」とか、「キリンです」と伝えられます。そのこの表現が、他者に伝わるのです。鉛筆を無理やり握らせて、なぞり書きをさせる必要はありません。その子の表現のありのままを、子どもたちも教師も称賛することができます。
文字のない絵だけの本を作る子どももいます。教師も文字のない本をあえて読み聞かせして、文字があっても、文字がなくても、立派な絵本であることを強調していきます。紙芝居のように、一つ一つの絵をテレビ画面に映し、意気揚々と語り部になります。
一流の絵本作家と同じステージに立てる
例えば作家の時間の振り返りの時に、「今日の発表は、『かこさとし』さんと『A』さんの2人の作品を発表しましたね。二人とも『主人公が弱い』という技術を使っていましたね」と有名な作家と子どもたちを2人の名前を並べて賞賛することができます。また、Aさんも一流の作家も同じ作家のテクニックを使っているということを強調することによって、自分達が有名作家と同じステージに立っているということも、舞台装置として使っていきます。
「教科書に出ているからすごい」「本を出しているからすごい」ではなく、自分達も作家で、仲間の作家から良いところを真似る、というスタンスが大切です。自分の可能性を評価し、潜在能力を引き出すことができます。何より、自分の作品に誇りを持つことができ、楽しいわけです。
その子を作品を通じて認めることができる
作家の時間に限らず、ワークショップの学び方全体に言えることですが、その子が頑張って書いた作品を理解することを通じて、その子自身を理解し、認めることができます。その子の作品をみとめることは、その子自身を認めることでもあります。子どもは、認められて成長していきます。
『改訂版 読書家の時間』の後書きでも書いていますが、現代の学校において、「子ども認める」という支援が、より重要になっています。子どもが、全く認められないで、小学生になってしまっているのです。
子どもは、たくさん認められないと、次の発達のステージに進むことはできません。それは、たくさん喃語(赤ちゃんのあーあー、ブーブーとか意味のない母音や子音の連続語)を話して、おしゃべりが上手になるのと一緒で、ある発達段階で大切にされている活動というのが違うのです。それを、「お喋りさせたいから、喃語はさせない」のようにもし指導としてしまったら、100歩譲ってお喋りができたとしても(おそらく、お喋りはできません)、一生涯、お喋りの楽しさを感じられない子どもに育ってしまうかもしれません。
先ほど出た、スクリブルも、そこを通過しないと、楽しく絵が描けるようになりませんし、ハイハイをたくさんしないで親の願望のまま立たせてしまうと、生涯必要な体幹の筋力をその適切な時期に身につけることができない可能性があります。指導者の理解不足による不適切な指導が、一生涯の禍根になる可能性があるのです。
これは、証拠も何もないですが、今自分自身のいる発達段階で必要な力というのは、子どもたちの生まれ持った本能で、自分で分かっていることの方が多いように思います。文字を書かなかったり、スクリブルばかり書いている子は、今その活動がその子の発達段階において、重要な意味を持っていると考えるべきです。ですから、指導者が次の段階に後押しすることはあっても、今夢中になって行なっている学習を止めたり、否定したりすることは、絶対にあってはならないことです。
しかも、その発達曲線は、個人によって、非常に個性的であり、一律に「◯歳だから〇〇ができるようになる」ということを言い切ることは不可能です。親や指導者を満足させるために、そのような基準が定められることはありますが、一番の判断の指針は、目の前の子どもをよく見るしかありません。
さて、たくさん認められて自信をつける段階で、あまり認められない幼少時代を送ってしまうと、自我がうまく育たずに、過度に他者を意識する子どもになってしまったり、ストレスに対して過剰な反応をしてしまう子どもになったりする可能性があります。詳しく説明できないですが、エリクソンのライフサイクルなどは、このような考え方に基づいているものです。
作家の時間ならば、その子に今最も必要な学習活動や指導を、その子に合わせて行うことができます。決して効率的ではないですが、指導者が一律の指導により間違った関わりをしてしまうことを避けることもできます。
この問題は、非常に根深いものがあるので、また機会があれば、表現できればと思います。
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