東京学芸大学のTES 2024というお祭りで、立命館小学校の永井健人さんの社会科ワークショップの体験会にお邪魔してきました。永井さんとは、社会科ワークショップ・ワークショップ@大阪に協力をしていただいた方で、社会科の書籍もたくさん出版されています。
社会科ワークショップを出版したのが2021年。あれからはや丸3年が経ちました。執筆者ではない方が、社会科ワークショップをベースとして、自分の実践を作ってくださっていることに感謝です。本当は社会科の自由進度学習なんて名打てばもっと注目度が集まるのではないかと思うのですが、恐れ多くも「社会科ワークショップ」という言葉を使ってくれるなんて、こんなことないですよね。まず永井さんの知的謙虚さの深い姿勢に、感銘を受けています。
帰りの電車の中で、もういちど社会科ワークショップについて考えてみました。もっと良い学び方はあるように思います。当時から伝えていましたが、ワークショップを学校現場に落とし込みやすいように構造化具合を、作家や読書家よりも高くしています。その分、もっと非構造化して、シームレスな学習は可能です。オーセンティックな「歴史家の時間」の姿も考えてみました。
紙とペンで資料を作る AI的全能感を持つ知的謙虚さのない子ども
まずは、永井さんのワークショップから。
永井さんの社会科ワークショップは、天神祭が題材でした。京都府・八坂神社の「祇園祭」、大阪府・大阪天満宮の「天神祭」、東京都・神田明神の「神田祭」が、日本三大祭りだそうです。恥ずかしながら1つも行ったことがない。天神祭は1000年以上続くお祭りで、疫病が流行したときに菅原道真の霊を鎮めるために行われたことが発祥だそうな。
永井さんがこのワークショップでもKP法を使ってプレゼンテーションしていることが、自分にとってはちょっとした驚きでした。一人一台端末が当たり前の時代になっても、永井さんは紙とペンを選んだということが、僕の判断と同じだったからです。
子どもは手書きの方が、自分の学習の輪郭をしっかり感じて学ぶことができるように思います。どういうことかというと、他者の内容、他者の絵などを、コピー&ペーストのように、どんどん他から持って来られるツールを使うと、自分と他者の境界線が薄くなり、それこそAIのような全能感の満ち溢れた人格が生まれてきてしまうような気がしています。
何か資料を見せたいのであれば、資料集の写真を見せればいいし、他者や友達が作った資料や写真を見せるということは、どこにこの資料を引いてきているのか、引用元の情報を言語化しなくても、暗黙に聞く人に伝えていることになります。これは自分の考えで、これは他者が作った資料や考えであるということを、どうやっても含意せざるを得ないのが、アナログの素晴らしいところだと思います。僕自身もまだまだ足りないですが、永井さんの知的謙虚さに触れると、彼が子どもたちにKP法を推薦していることにも、筋が通る気がしています。
AIで創造を捨てる
僕はこの日、Canvaのワークショップで絵本を作りました。けれど、文章も絵も全部AIがやってくれたので、創造力は何も使ってないです。「AIを使わない未来はない」確かにそうですね。「家畜」という技術を習得することになった人類は、「狩猟」という技術を捨てました。「コピー機」という道具を使うことによって、「写本」という活動を捨てました。でも、「AI」という道具を手に入れたことで、僕は創造という技術を捨てたくないです。ぼんやりしていると、のっとられそうです。
概念 歴史を道具として使う
概念型カリキュラムの本を読んで、執筆当時にはうまく言葉にできなかったものが、ちょっと言葉にできそうな気がしています。
概念優先でのカリキュラム作りとなってくると、歴史を順に繰り上がっていくような学び方が本当に適しているかどうか、ちゃんと考えなければならないと思います。逆に歴史を新しい順に学んで、自分のおじいちゃんおばあちゃんを偲ぶのもいいし(『歴史をする』にはそのような実践も紹介されています)、ヒーローの歴史、食べ物の歴史、戦争の歴史、平和の歴史というようにちゃんと焦点化して学んでもいい。そちらの方がより歴史を道具として使った学び方であるようにも思います。
歴史を道具として使うと言うのは、言い換えれば、歴史で学んだ概念を現代社会や他の内容(他の時代の歴史でもいいし、他の教科だっていい)に当てはめて考えるということです。歴史を学ぶ価値は、未来を「ある程度」予測できる可能性があることであるし、繰り返し起こる人類の過ちを未然に防ぐことができるかもしれないということ。それが、歴史を道具として使うということであり、歴史を学ぶことの本質は、そこにあるのではないだろうか。子どもだろうが、大人であろうが関係なく、歴史を通して今を学ぶことをしないと、歴史を学ぶ本質を見誤るように思います。
歴史を分かり切った人しかそんなことはできないと、先生たちは思い込んでいるのではないでしょうか?歴史を狩猟採集時代から現代まで網羅的に理解しないと、そのような歴史を道具として使うことはできないのでしょうか? そんなことはないですよね。歴史を分かり切るなんて、神様しかできない。 歴史を学ぶということは、歴史レンズを通してさまざまに見えることを考えること、今、行動することなんだと思います。(そうなってくると、教科「歴史」としての特質はなんなのかも考えたくなってきます)
歴史を学ぶときに、内容ばかりに気を取られて、概念を軽視しているということに、その根本的な原因があるように思います。子どもたちが目を引くカラフルにデザイン化された日本史年表から、興味のある内容を選んで、その内容からえた概念(教訓とも言うかもしれない)を現代社会に転移させて考えることをするだけでも、歴史を道具としてつかう初歩的な指導としては、素晴らしいですね。「歴史にドキリ」みたいな優秀なコンテンツがあるので、通史を短い時間で楽しむことも可能であるように思います。
社会科ワークショップをオーセンティックな「歴史家の時間」へ
では、社会科ワークショップがそこまで歴史を道具として扱う構造になっているかどうかといえば、指導者のカンファランスに頼るような構造になっていて、カリキュラムの中に落とし込まれているとはいえません。対立で見る歴史、同盟関係から見る歴史、為政者と民衆から見る歴史があっていい。
最近の教科書や資料集には、衣食住の視点からその時代の生活を映し出すような工夫がされていて、歴史を衣食住という視点で横に並べる視点ができるような工夫があるので、子どもの興味のある「ヒーロー」「戦争と平和」「ファッション」「建築」「食べ物」という視点で、歴史を辿るような社会科の授業は、小学校段階では歴史への興味関心も高まりそうで、ちょうどよいのかもしれません。
オーセンティックな「歴史家の時間」の僕のイメージは、年間に6単元ぐらいあって、「歴史にようこそ」「祖父、曽祖父、高祖父の歴史」「好きなものを歴史で見る」「権力」「戦争と平和」「未来を読む」のように、歴史の内容を追うというよりも、歴史というものの見方でさまざまなものを見る練習をして、さまざまな考えを今の社会に応用して考えられるような構造にすると思います。
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