物語という形式を通じて子どもは世界を捉えようとしているという仮説

ライティング・ワークショップ

前回のポストの続きです

 子どもの発達に物語を書くことが重要なプロセスなのではないかということを書きましたが、これを着想するに至ったのは、ある人との出会いがあります。以前書きました北海道の中学校の先生である山崎先生との話です。
 絵は子どもを理解するためのもので、絵をとるか子どもをとるかといえば、もちろん子どもを取る。という話をしました。文章で書くと、そんなこと当たり前じゃないですか!という感じですが、この時はこの言葉にとてもショックを覚えました。自分の図工は、完全に子どもを理解するために絵を見ていると言うよりは、絵を良くするために子どもを指導していたからです。そして、今年のグループインタビューで、奇しくも、指導を受けた子どもがあれは先生のために絵を描いていたと語るわけです。
 さて、山崎先生が自前のプレゼンをわざわざそこにいた3人だけのためにしてくださったのですが、そのとき語ってらっしゃったのが、子どもにはその時に必要な発達があるということです。参考になる本も教えてくださりました。
 スクリブルを書く時期の子どもには、たっぷりスクリブルを楽しく自由にさせてあげなければならないし、平面的に描く子どもには、その絵を大切にしながら対話をしなければならないと。しかし、自分という大人は、見栄えばかり気にするもんだから、教室の前に平面的な絵が飾られていると、どうして立体的に描くという技術を教えなかったのか、とか、色彩を豊かにすることを指導しなかったのかとか、そんなしがらみばかり気にしてしまいます。
 すると、またあおいちゃん登場ですが、スクリブルを描いているあおいちゃんに、この綺麗な色を使ってごらん!とか、まるを書いてごらんとか、いらんこと言ってしまうわけです。すると、絵を書くことに対して、フローになれなくなる。そして、親の期待に応じようと思って、無意図にそのような色を選んだり、円を書いたりしてしまう。結果どうなるかというと、自分で色を発見したり、形を見つけたりするという喜びを奪い、絵を書くことは世界を見つける喜びを感じることという大前提を奪ってしまうことになるということです。
 さて、これは、文章を書くということには当てはまらないのでしょうか。
 物語を書こうとする子どもは、物語の定形や文脈を生かして、世界を捉える形式を学んでいると言えるような気がします。その生まれながらにしてもつ学ぼうとする本能を、大人(←自分)は体(てい)を気にするがあまり、ノンフィクションにジャンルをしぼった。このことについては、ちゃんと考える必要があると思います。

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