このまえ、友達がライティング・ワークショップについて教えてときてくれたので、2時間ぐらいペラペラと話しました。その時に考えたことを文章にしてみます。
ライティング・ワークショップで、今年1年間はノンフィクションに限定してきました。いちばんの理由は子どもたちの背景を知らない保護者の方でも、その子の考えていることが分かりやすく、その子の伝えたいことが何であるか、その子がうまく表現できていなくても、保護者にはとても良く伝わるからです。そうすれば、保護者の方はファンレターを書いてくださる。文章がまだ稚拙な子でも、出版さえできればファンレターがもらえやすいことになります。つまり、ランディング・ワークショップで最も大切にしなければならない、『楽しい』という気持ちを生み出す誰かが読んでくれて反応をもらえるという循環が生み出しやすくなるからです。
しかし、1年間の振り返りグループインタビューで出てくる言葉は、物語が書きたかったという言葉です。星新一を追いかけて読んでいた男の子が、筆者の書き方を真似して物語を書いてみたかったと言っていたのが、とても印象的でした。そんなことを言うなんて、すばらしい子どもです。
1年前は物語も自由に書かせていました。物語を書こうとする子どもはどうしても無為に文章が長くなりがちです。すると、章に区切るという方法を子どもたちは思いつくのですが、わたしがそれを読んでみると、やはり、意味が分からないのです。それだけでは、この物語が何を意味しているのか分からないと、ファンレターもとても書きづらくなります。そして、章に分けて書き始めたからには、子どもは自分の物語に相当にこだわります。ですから、新しい文章を書き始められなくなる子もいました。
そのようなことを、今年のグループインタビューの時にも、この子たちに伝えましたが、それでも彼らは物語に挑戦したかったと言いました。話の筋が通らない物語でも(もちろん、星新一の子がそうとは限りませんが)、やっぱり物語を書きたいという気持ちはどこから出てくるのでしょうか。
一つの仮説は、子どもは物語を作ることで、言葉の力を高めようとする存在で、生まれながらに物語を作りたくなるような存在なのであるということです。
うちのあおいちゃんの発達を観察していると、彼女はすぐに物語を即興で作って、それをぶつぶつ念仏のように唱えながら、遊んでいます。くまのぬいぐるみを片手にもって、「はいごはんですよー」とか、〇〇といいました、など、地の文まで作って、一人で遊んでいることがある。つまり、字を知らないので書き表すことができないだけで、あおいちゃんは、物語を作って遊んでいるのである。それは、おそらく、あおいちゃんの言葉の獲得の過程に、ものすごく結びついているような気がする。イメージを言葉に変換して出して、それを耳で聞いて持っているクマを動かすという学習は、1歳の頃にはできなかった。この遊びは、相当に言葉の力がついていないと、することはできないし、これを繰り返すことによって、創造性を伴う反復学習ができるのだろう。あおいちゃんは、おそろしい言葉の学習方法を生み出した。いや、そうではなくて、もともと人間の発達はそういうようになっているのではないか。
とすると、小学生が物語を作りたがるのは、このあおいちゃんの言葉の学習方法が、話すことで表出されるのではなく、書くことで表出されるだけであって、根本的には変わらないのではないかということだ。
自分を含めた大人は、すぐに見栄えを気にする。子どもが書いた物語の意味がわからないものだと、これを多くの人に読んでもらっていいのだろうか、とか、自分の指導が浸透していない文章なのではないかと思われるのは嫌だとか、そうやって考えてしまう。
けれど、あおいちゃんのこの物語創造反復学習を、意味がわからないとか、見栄えが悪いからといって、ストップを掛けてしまっていたら、おそらく、こんなにおしゃべりが得意な子に育っていないと思う。
もしかしたら、これと同じ事を、自分は子どもたちにしてしまっているのではないかと、不安になった。子どもの発達に物語を生み出すというプロセスは重要な働きをするのではないだろうか。それを知らずに、見栄えを気にする大人が、頭を押さえてしまっているのではないだろうか。
というわけで、来年は基本的にノンフィクションに限定はするけれども、フィクションユニット(それでも年に数回かなあ…)を作って、原稿用紙の枚数に縛りをかけてやろうかと思っています。
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